一部フリーランスが早期リタイアを槍玉に挙げる不思議
一部のフリーランスの方々が、セミリタイア・早期リタイアというものを槍玉にあげる記事を書いておられます。
例えば、、、、
これらに直接反論する気は無いのですが、「何故、これらの人々が、リタイアというものを槍玉に挙げるんだろう?」という点について興味深く思うので、少し書いてみます。
目次
《埼玉県寄居町:JR八高線・用土駅、植物に埋まり、あまり意味をなしていない駅名版》
フルタイム労働者から見たら、どちらも「あっち側の人」
賃金労働者の立場からのリタイア批判はありがち。次の過去記事でも取り上げました。
【過去の当ブログ参考記事】 恐い……女性リタイア者へ「幸せ自慢するな!」と攻撃
ただ、賃金労働をやめてフリーランスになった方からリタイアを批判される、というのは、どうにも解せないんですよね。
こんなこと言ったら怒る人もいるかもしれませんが、フルタイム労働者から見たら、先に挙げた批判記事の投稿者も、リタイア者も、同じ「あっち側の人」のように映ると思うのです。
とりたてて通う職場はなく、よって確定した・安定した給与というものもなく、ネットにコンテンツをアップしたりする生活。
一体何が違うん?
もちろんご本人達に言わせれば、色々と違いがあるのだと思いますが、大局的に見れば、目くそ鼻くそなんではないでしょうか?
だから、「似た者同士、仲良くしようよ」というのが私の感覚なのです。
リタイア者が槍玉にあげるのは「フルタイム賃金労働」
リタイアブログ界においては、リタイアの枠内で「全く働かない」「少しだけ働く」のどちらが良いか?という観点での記事は結構あるのですが、フリーランスの生き方を槍玉に挙げた記事というのは、フリーランス経験のある方くらいなものです。
リタイアブロガーが槍玉に挙げるのは何と言っても「フルタイム賃金労働」ですよね。それが嫌でリタイアしたという人が大半でしょうし、対象となる読者層も幅広い。生活面でもリタイア者とフルタイム賃金労働者とでは、かなり異なっています。
つまり、「フルタイム賃金労働」を差し置いて、フリーランスについてあれこれモノ申す必然性が見当たらないのです。仮にフリーランスにダメ出しする記事を書こうとしても、パンチに欠けるし、下手するとブーメランになりかねない。
だからこそ、逆に、一部とはいえフリーランスの方が、リタイアを槍玉に挙げた記事をお書きになっている、というのが、不思議というか、興味深く思えるのです。
「好きな仕事」がポイントか?
先の2つの記事におけるリタイア批判、リタイア志望者は念頭に置いておいても良いことだと思うので、一概に否定するつもりはありませんが、それよりも興味深いのは、両記事の結末近くの記述です。
アーリーリタイアの「不都合な真実」|ひらっち【フリーライター×農家の経済自由人】|note
僕が考える「ほぼセミリタイア」の本質は、リタイアできるぐらいの状況を作り出し、自分が本当に好きなこと、情熱を注げる仕事を選び、働き続けることだと思っています。
「セミリタイア」を現実逃避に使っていないか?|今日はヒトデ祭りだぞ!
結局自分達のほとんどは「仕事」から逃れる事が出来ません。平均寿命は伸び続けていて、年金もあまり期待出来ないとなれば尚更です
それならば、歯を食いしばりながら現実逃避をするよりも
今よりも苦しくない仕事
理想を言えば
自分にとって楽しい仕事
を続けていく必要があるんだと思いました
どちらも書かれていることが似ている(もっと言えばソックリ)と思いませんか?
両者の記事の構造は類似していて、延々とリタイア批判を続けてきて、結末に「好きな仕事」「楽しい仕事」を持ってくるというあたりに、彼らの深層心理が透けて見えてくる気がするのです。
このお二方の記事を読む限り、現に「好きな仕事」「楽しい仕事」をされている、少なくともそれを目指しておられるようで、そのことを肯定する(手前味噌な)結論に導くために、早期リタイア・セミリタイアというものをダシに使っているように読めてしまうのですね。
ムムっ、このようなスタンスの記事は、他にも見覚えがあるぞ!
以前、「道楽の仕事」は早期リタイア後にやればよい でご紹介した、大江英樹さんの次の記事ですね。
「早期リタイアしたい」という人が、実は幸せになれない理由2つ
たとえ会社勤めであったとしても、自分が担当する仕事の中で“好きなこと”や“得意なこと”を見つけることは可能だし、そうすべきです。
(略)早期リタイアすることを夢見て今の仕事を苦痛と思ってやっている人は、仕事を楽しんでやっている人には絶対に勝てません。(略)
私自身、サラリーマン時代、仕事はそれほど好きではありませんでしたが、自分が担当していた仕事の中のひとつに「人前で喋る」「講演の講師をする」というのがあり、これは自分でも好きな仕事でした。(略)60歳で独立してから8年経った現在でも年間150回近い講演の依頼を受けています。(略)
要するに「早くリタイアしたい」という姿勢を続ける限り、(略)その行く末は負け組になってしまう可能性はかなり高いと思います。
大江さんも、年は先の二者と大分離れていますが、「『好き』を仕事にして独立したフリーランス」であり、かつ、その立場から早期リタイアというものを否定的に扱っている点では、先の2つの記事と変わるところはありませんね。
これら3つの記事を読む限り、「好きな仕事」というのがポイントになりそうです。
つまり、リタイア者に無く、多くのフルタイム賃金労働者にも無く、でも、一部のフリーランスにあるものが「好きな仕事」。だから彼らは、自分の強みである「好きな仕事」を推してくるのでしょう。
ただ、それだけなら、人数が圧倒的に多いフルタイム賃金労働者に批判対象を絞れば良さそうですが、わざわざマイノリティであるリタイア者をターゲットにするのは何故でしょうか。
仕事にプライオリティを置くか置かないかが対立点
リタイア者は「仕事」というものにプライオリティを置いていません。
「仕事とはツライもの」というのが出発点なのですから当然です。
ただ、「生活のアクセント」「若干の定期収入を確保する」といった理由で、短時間の副業をすることはあります。でも、それは文字通り「副」業なのであって、メインは「仕事をしていない時間」にあります。副業がメインになってしまったら、それはリタイアではないですからね。
しかし、リタイア者のこのようなスタンスは、彼らのウリである「好きな仕事」ということと大きく対立するものです。「好きな仕事」というのは、相当程度、仕事にプライオリティを置いている考え方だからです。下手するとフルタイム賃金労働者以上に。
他の相違点が曖昧なだけに、この対立は余計に目立つものです。
そのため、彼らからすると、仕事にプライオリティを置かないリタイア者の姿勢は、いかにも根無し草のように映るだろうし(もっとも、彼らの生き方だって人のこと言えるほど盤石には見えませんが)、コンテンツ作成の面では競争相手でもあります。
特に、最近は早期リタイア・セミリタイアの他に、FIREの概念が紹介され、「好きな仕事で生きる」もいいけど、「そもそも仕事したくない」ということの露出が増えてきています。
このような現象に対して、「何か一言、言っておきたい」という気持ちにさせられた一部のフリーランスの方によって、リタイア批判の記事が書かれるのではないか、と推測いたします。
ちなみに、冒頭のお二方は、次のような記事も書かれています。まぁ、セミリタイアは気になる存在なんだろうなー。
また、次の当ブログ過去記事もよろしければお読みください。
【過去の当ブログ参考記事】 誰もが好きな事で生きていける訳でないという当たり前の事実
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憲法の「勤労の義務」違反で他者を攻撃する人々
本日は「勤労感謝の日」。
日本国憲法の三大義務の中に「勤労」が含まれていることは、あまりにも有名です。
第二十七条
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
- 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
- 児童は、これを酷使してはならない。
この第一項が独り歩きして「働かないのは憲法違反!」みたいなコメント、直接は聞いたことないにしても、ネットではたまに見かけます。
最近も、専業主婦の投稿が大炎上したそうです。
「働いてないってそんなにいけないこと?」専業主婦の投稿が大炎上「憲法の勤労の義務違反」の批判まで 専門家に聞いた
30代専業主婦の「働いてないってそんなにいけないことなのか」という投稿が大炎上している。4人の子育てに追われる毎日なのに、ママ友から「なぜ働かないの?」と聞かれることが「疲れる」というのだ。
この投稿に対しては、「憲法に勤労の義務があること知らないの?」「働いて社会貢献をすべき」という厳しい批判がある一方で、「家事・育児も立派な仕事」「4人の子がいては働くのは無理」と応援の声も。専門家に聞いた。
目次
《東京都青梅市:JR青梅線・石神前駅付近》
「勤労の義務」は思われているほど普遍的なものではない
「勤労の義務」というのは一種の「精神的規定」だそうで、これに違反したからといって、逮捕・連行され、裁判や刑罰に至るな性質のようなものでは無いということです。
(略)憲法の規定では、労働権の保障と対応して、一種の「精神的規定」にとどまっている。また、そう解さざるを得ない。
(略)この規定は、立法によって国民へのあらゆる強制労働を許容するものではなく(日本国憲法第18条)、違反者に対する具体的な罰則を課するよう立法や行政に義務付ける性質のものでもない。
こんなもん、憲法学者の学説など引用するまでもなく、実態としてそうですよね。
ただ、生存権を担保する生活保護の対象が、「働けるのに働こうとしない者」にまで無条件に拡大されないことの説明として、この「勤労の義務」が援用されることはあるようですが、まぁ限定的です。
また、「勤労の義務」を憲法で規定している国は非常に少ないそうで、私がざっとネットを見て名前が挙がっていたのは、日本の他は、中国、韓国、北朝鮮といった東アジア勢のみでした。他にもあるかも知れませんが、メジャーな資本主義国で「勤労の義務」が憲法で謳われている国が非常に少ないのは事実なんでしょうね。
何が言いたいかというと、「勤労の義務」なんて、日本で思われているほど、普遍的な価値を含んでいるものでは無いんだろう、ということ。
「精神的規定」としては絶大な影響力がある(日本では)
しかし、です。
この「精神的規定」に過ぎないものが、日本人の考え方に絶大な影響力を及ぼしているように思います。何たって、「日本国憲法の三大義務」は中学社会ではテストでよく出る重要項目です。
2.勤労の義務(マナペディア)
NEETはひょっとしたら憲法違反かもしれませんね。
(略)
この3大義務はテストでよく出てきますので、しっかりとおさえておきましょう!!
ニートは憲法違反? - 社会科の教員が「ニートは勤労の義務を果たしていない... - Yahoo!知恵袋
社会科の教員が「ニートは勤労の義務を果たしていないので憲法に違反している」というようなことを言っていました。
ここで「勤労の義務」というものを、他の2つの義務と併せてしっかり刷り込まれます。
他の2つの義務については、条件さえ整えば、税務署や市町村が自発的にこちらへアクセスしてくる性質のものなので、いやがおうでも意識せざるを得ないのですが、そういう強制力のあるものの中に、「勤労の義務」なる精神的規定が、チャッカリ紛れ込んでいるわけです。
先生は「勤労の義務」が単なる精神的規定だなんて言わないどころか、先の引用にあるように「ニートは憲法違反かも」なんて言っちゃうくらいですから、純粋な中学生は、「勤労」というものが、「納税」「教育」と同等に強制力ある義務だと刷り込まれ、多くはそのまま大人になるのでしょう。
この確立した流れ、人々の考え方に多大な影響を及ぼさないわけがありません。憲法の規程まで持ちだして、自発的に「勤労の強制性」を説いてくれる輩まで現れるのですから。
「働いてないってそんなにいけないこと?」専業主婦の投稿が大炎上「憲法の勤労の義務違反」の批判まで 専門家に聞いた
「あなたは、日本国憲法に『勤労の義務』という言葉があるのをご存じでしょう。(略)幼稚園や小中学校の費用にどれだけ税金が投入されていますか。すべて勤労した人からの税金からです。(略)だから税金泥棒なんて言葉ができるのです」
結果論とはいえ、日本人の勤労道徳を高めるのに、何とも上手いやり方となっています。
憲法の「勤労の義務」を盲目的に是と捉えてしまうのは「クソ真面目」
このように、勤労を道徳化する意識を、次の記事では「クソ真面目」と表現しています。
「働かざる者食うべからず」というクソ真面目な考えはもうすぐ消える(井上 智洋) | マネー現代 | 講談社(2/5)
「労働しなければならない」「労働していない者はちゃんとした大人として認められない」といったクソ真面目な意識が、この国では強過ぎないだろうか?
なるほど、「クソ真面目」とは言い得て妙だな、と思います。
先にも述べた通り、たかが憲法上の精神的規定。義務といっても、それ程普遍的なものではない。その程度のものを、中学で刷り込まれて以降、盲目的に是として捉えて疑うことを知らず、それに沿っていない生き方をしている他人を許すことができない。「勤労の義務」を錦の御旗に、ニートや専業主婦を攻撃する。
でも、私は「みんなで働いて税金をおさめて社会を作っていくんだ!」みたいなこと、綺麗事でしかないと昔から思っていたな。不真面目なことに。
働かないで暮らしていけるならそれに越したことないし、税金泥棒云々言うなら、納税額には上には上がいるから、(現役時代の)自分の納税額ごときでニートを攻撃するなんて、結局は自分の首を絞めるだけ。
ただ、現実問題として働いて金を稼がないと暮らしていけないから、憲法の規程とは無関係に働いていた。働かなくてもいい人は羨ましくはあっても、妬みや非難の対象ではなかった。
私の発想はこうですから、働かない人に対し「勤労の義務」を持ち出して攻撃する人はついては、クソ真面目という表現が、個人的にしっくり来るのです。
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「情弱」考 ~ 情報に"踊らされる"よりは"知らない"方がまだいい
誰もが「情弱(情報弱者)」にはなりたくない。
そこで、有利な情報を見つけてトクをしようとする。そのような情報を幅広くネットに拡散して「いいね」を得ようとする。こういうことを繰り返すうちに、本来は「使いこなす」物であった情報が、やがて「踊らされるもの」になっていく。
なんか面倒臭いことになってきたなぁ、と思うのです。
目次
《東京都奥多摩町:JR青梅線・古里駅》
20年前のインターネットの様子
いきなりですが、20年前にはブロードバンド(広帯域回線。この言葉でさえほとんど死語だよなぁ)は普及しておらず、電話回線が主流。真夜中に限り定額で電話回線を繋ぎっぱなしにできる「テレホーダイ」や、ISDNのサービスがありました。
当然、SNSというものは影も形も無く、代わりに、個人が設置した掲示版サービスがネット利用者間の交流の役目を果たしていました。その中の最大手が2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)です。
当時はひろゆき氏も2ちゃんねる管理人として現役であり、彼のスタイルが2ちゃんねるの雰囲気に大きな影響を及ぼし、また、2ちゃんねるの雰囲気がネット界隈に大きな影響を及ぼしている。そんな感じでした。
特に、現実世界の出来事を「ネタ」として楽しむ風潮が盛んであり、吉野家コピペ、大震災コピペなどは定番でした(不謹慎ですが)。
また、九州でバスがハイジャックされ、一人が死亡するという痛ましい事件があり、ネオむぎ茶なる人物が、その犯行予告を2ちゃんねるに書き込んだ、という出来事がありました。
西鉄バスジャック事件は、2000年(平成12年)5月3日に発生した当時17歳の少年によるバス乗っ取り(バスジャック)事件である。(略)ほかにもインターネット掲示板の2ちゃんねるに犯行予告の書き込みが残されており、その時のハンドルネームからネオむぎ茶事件(ネオ麦茶事件)とも呼ばれた。
その「犯行予告」なるものは、いまでも過去ログとして見ることが出来ます。
1 名前: ネオむぎ茶 投稿日: 2000/05/03(水) 12:18
ヒヒヒヒヒ
4 名前: 棄て 投稿日: 2000/05/03(水) 17:33
西鉄バスジャック事件と関係があったら…驚くぞ。
11 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/03(水) 19:12
しかしこれほんとに予告に思えてくるな。
313 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/04(木) 04:00
警察の人、事件後ここも調べて、一個一個読むんだろうなあ。
御苦労様と言わねばなるまい。
気の毒というか、なんというか。
時代は面倒なものを産み落としたものだね。
このとき、ひろゆき氏が取材を受けて、「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という名言が生まれたのです。
ネットは全くお騒がせな存在だったのですが、芸能人を自殺に追い込んでしまうほどのパワーはありませんでした。
便所の落書きをしている日蔭者・・・それがネット住人の多くを占めていました。
「情報弱者(情弱)」なる言葉の創生期
当時のネットでよく使われていた「ネット用語」の出所は2ちゃんねるか、あるいは2ちゃんねるを通して流行したものが多く、「萌え」「萎え」「ドキュソ(DQN)」「氏ね」「ガイシュツ」「香具師」「乙」「逝ってよし」「オマエモナー」「激しく同意(禿同)」「マターリ」「串」などは、頻出単語でした。
その一つに「情報弱者」があります。他の用語が廃れていくなか、この一見地味な「情報弱者」という用語は、いつしか「情弱」と略されるようになり、現在に至るまで幅広く使われています。
「情報弱者」の意味を調べてみると。。。
情報弱者とは (ジョウホウジャクシャとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
近年の急速なIT化に伴い、デジタル技術や通信インフラを利用できる者と利用できない者で情報格差が生じるようになった。情報弱者とはその後者である。
当時は、この本来の意味で使われていたし、ネットにつないでいる人はそれ程多くなかったので、実際に「情報格差」というものはあったのです。そして、ネットに繋いでいる人が、繋いでいない人を指して「情報弱者」という語を使っていました。
特に、ネットに繋げられないために、「マスコミ」や「既成の価値概念」を鵜呑みにして、愚かな言動をしている人を蔑む、という文脈が多かったと思います。
ただ、彼らは、単純に情報弱者を蔑んでいたわけではありません。
先の「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という言葉が彼らの基本スタンス。
情報が本当か嘘か見極めることは、「情報強者」の側にある者としては最も基本的な行動でした。ポンと貼られた情報ソースの信憑性については、厳しくチェックされたものです。
それは、佐賀県佐賀市17歳・・・。の「犯行予告」がホンモノかどうか、後のレスで検証されていることからも分かります。
情報強者としては、ネタにマジレスすることは恥ずべきことだったのです。
最近の「情弱」
一方、最近は、小学生や老人でもインターネットに繋げられる世の中になり、ネットに繋げられない、という意味での「情報弱者」はほとんど存在しなくなりました。
ただ、この語が消えることはなく、
情報弱者とは (ジョウホウジャクシャとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
ネットでは、本来の意味と異なり「情報を充分に活用できない者」という意味合いで使用されることが多い。この用法によれば、ITインフラを活用して情報を入手しているからといって情報弱者ではないとはいえない。たとえば、インターネットで得た情報をろくな検証も無しに鵜呑みにする者は、旧来のメディアからの情報を鵜呑みにする者となんら変わらない。
という感じに、意味や用法が多様化して生き残っています。
「インターネットで得た情報をろくな検証も無しに鵜呑みにする者」が多い状況は確かにある。そして思うに、「情報を知らない」ことよりタチが悪いのは、「情報に踊らされる」ということです。
例えば、ネタのTV番組に大量の人がマジレスして芸能人を自殺に追い込んでしまった、あの事件。
20年前に同様の番組をやっていたとして、同様の事件が起きたか、というとそうじゃないような気がするんですよね。ネットにそれほどのパワーが無かったというのもありますが、そもそも、ネタはネタとして楽しむというのが、当時のネット住人のスタンスでしたから。
あんな番組、相当に脚色が入っているでしょうから、その脚色の入り具合をあれこれ推理するというのが、(20年前の)ネット流の楽しみ方です。そんなものに真剣に怒ってみても、「ネタにマジレスかっこ悪い」 と言われるのがオチです。
しかし、昨今は、ネタに対して壮大なマジレス大会をしているケースが多い。ネタに耐性の無い状態でネットを使っている、というのがデフォルトなのでしょうね。
また「情弱ビジネス」という言葉があります。何とか成功したい人達に、インフルエンサーが怪しげな情報商材を売りつけたり、サロンを経営したりする、というのが、その一形態です。
商売の対象となっている「情弱」は、もともと「強者」の側に立ちたいという思いで、サービスを購入しているはずなのですが、こんなモノに引っかかってしまうなんて不思議なことです。
ネットの世界は面倒臭くなった。一歩引くのも一つの見識。
「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」という、あの名言は、もはや死語なのでしょうか。。。
本当に、ネットの世界は面倒臭くなった。
それなら、全くネットに関わらないで生きていくのは困難だけど、そこから一歩引いてみるのも一つの見識だと思うんですよね。
先にも述べた通り、「情報を知らない」以上にタチが悪いのが、「情報に踊らされる」ことです。そしてネットにどっぷりつかればつかるほど、情報に踊らされる確率が高くなるのです。
「情報を使いこなす」のが最善なのは分かるのですが、自分にはその域に達するだけの気力も能力も無い。そこで、私は、次善の策として「情報を知らない」の方をとっている。SNSをやらないのも、そういう理由ですね。
まぁ、「情報を使いこなす」人達からすれば情弱だと思いますよ。でも、私は「情強」であることに、情熱を注げなくなってしまったのですよ。
- 余談ですが、驚いたことに、冒頭に述べたテレホ、いまだ現役のサービスらしいのです! 料金も当時と変わっていないような・・・。
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リタイアして「トイレ」にいつでも行けるようになった
お腹が弱い私にとっての隠れたリタイアの効用。それはトイレにいつでも行けるようになったこと。
リタイアブログ界でも見かけたことが無い話ですが、結構、これは真剣に思っていることなので、書いてみます。
目次
《埼玉県本庄市:JR八高線・児玉駅》
「排泄の欲求」ほど基層的な欲求は他に無い
以前、マズローの欲求5段階説を取り上げました。
【過去の当ブログ参考記事】 感染は恐い!でも経済は回す!の不条理、心理学で考えてみた
欲求5段階説は、基層的なものから順に、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求と、5つの階層をなしている、と主張するものです。
「排泄の欲求」はその最も基層的な「生理的欲求」に属します。
生理的欲求は、生命活動を維持するために不可欠な、必要最低限の欲求を指します。いわゆる「3大欲求」(食欲・睡眠欲・性欲)のほか、呼吸をしたい、排せつをしたい、水を飲みたいなどの欲求も、生理的欲求に該当します。
そして数ある基層的な生理的欲求のなかでも「排泄の欲求」ほど基層的なものは無いと思うんですよね。
禁欲的な生活を送っている修行僧みたいな人であれば、食事はほとんどお湯だけの粥で済まし、性欲は全く湧かない、というケースもあるでしょうが、尿や便はしないわけにいかない。
体が大量の排出を求めるなら、どんなに禁欲的であろうと、体の求めに応じて満額回答しなくてはいけない。
体が即時の排出を求めるなら、どんなに禁欲的であろうと、体の求めに応じて一刻も早く欲求を満たしてやらなくてはいけない。
そういう点で、他の基層的であるとされる食欲・睡眠欲・性欲などと比べても、更に次元が違った欲求だと思うんですよね。
勤め人は、この基層的欲求の充足に制限がかかる
たかがトイレとは言いますが、数ある生理的欲求の中でも更に基層的なこの欲求。にも関わらず、勤め人である限り、この充足には制限がかかる。要するに、行きたいときに行けるとは限らない。
制限がかかる場面は大きく2つ。会議と通勤です。
会議
まず会議。ある時期、15人ほどを相手に、私が延々と報告を行う会議を、出社のたびに行っていたのですが、その最中に催したことがあります。
私が席を外したら、その会議はストップしてしまうので、そう簡単に欲求を満たすことは出来ない。
しかし、不思議なことに、制限がかかっている場面であればあるほど、その欲求はますます強力になっていくものなのです。
一進一退の状況が続きました。
しかし、欲求には勝てませんでした。報告の途中で、
「すみません、トイレに行かせて下さい」
欲求が強力であっただけ、所要時間も長く10分ほどはかかったと思います。その間、会議室では「そのことには触れない」という暗黙の了解のもと、雑談でもしていたのでしょう。
通勤
これについては、数ヶ月に一度くらい壮絶な戦いを強いられてきました。
関西にいたときは、京都市内から阪急で梅田まで通っていたのですが、座席にありつくために、いつも各駅停車を利用していました。
【過去の当ブログ参考記事】 満員電車を避ける、これが私のポリシー
ある朝、電車内で催したので、途中、各駅停車しかとまらない大山崎駅で下車しました。欲求を満たし終えるにはかなりの時間を要したのですが、「まだどうにか間に合う!」と再びホームに立つと、通過電車ばかりでなかなか乗ることが出来ず。
結局、この日は遅刻しました。
各駅停車マニアの私ですが、このときばかりは思いました。
「通勤時に途中下車するなら、特急停車駅にしておくべき」
と。
青梅に越してからも、通勤時のトイレには何度も泣かされましたね。
通勤時は、次の行動が基本でした。
- 自宅最寄駅から上り青梅行きに乗る
- 青梅駅到着後、一本見送って次の上り東京方面行きに乗る
- 会社最寄駅に到着
あるとき、自宅最寄駅から電車に乗ってすぐに催したので、青梅駅で次の電車を待っている間に欲求を満たしました。その後、次の電車に乗車して、またすぐに催したので、2つ先の河辺駅で下車し、更に次の電車に乗ったらまた催して、またまた別の駅で・・・なんてこともありました。
また別のあるとき、会社最寄駅までどうにか耐え抜き、会社最寄駅のトイレに駆け込むも、全て埋まっていた!
仕方なく、そのまま会社に向かったが、案の定、途中で耐えきれなくなった。
「もうダメ・・・。最早これまで・・・」
というところで、ファミリーマートが目の前にあり、入店してみたらトイレが使えた。
会社近くのコンビニでトイレに行ったのはこれが初めてでしたが、このときの緊急事態を救ってくれた、あのファミマには本当に感謝してもしきれない。
以降、私は、昼食をコンビニで買うときは、セブンからファミマに転向したのでした。
ありがとう!ファミリーマート!
中央線・青梅線の通勤特快には怖くて乗れない
こういう状態ですから、長時間停車しないトイレ無しの列車には怖くて乗れません。
中央線・青梅線には朝、通勤特快という列車が走っているのですが、国分寺を出たあと、新宿に至るまで30分近く無停車というシロモノ。
こういう列車ですから、国分寺駅到着前には、「具合の悪いヤツは国分寺で降りろ」という車内放送も流れるそうです。
この電車に乗ると新宿や東京まで早く着けるのだが、私は都心部に用事がある場合でも、絶対にこの列車には乗らない。
もし国分寺発車後にお腹がグルグル言い出したら・・・嗚呼、考えるだに恐ろしい。
数ある「想定されていない場所での排泄」の中でも、通勤電車の車内というのは最強・最悪ではなかろうか。他の場所なら人目につかない場所で次善の策を講ずることが出来ても、この列車の場合、それが出来ませんから。
最近は、中央線の車輛もトイレ設置工事がなされつつあるが、満員の車内で思い通りにトイレに行けるとは到底思えない。途中、人身事故でもあったら、乗車時間は更に延びる。
お腹が弱い人間は、絶対に中央線・通勤特快の国分寺~新宿間を乗車してはならない。
基層的な欲求が満たせないで、何が「自己実現の欲求」だ
リタイアすると、このような悩みからは、かなり解放されます。これだけでもリタイアする価値はある、と言ってもいいぐらいに私は思っています。
それは、言うまでもなく、リタイアすると、一番トイレが混雑している時間帯に電車で出かけることがなくなるからです。家でならいつでも出来るわけですし、外出する場合でも、お腹の調子が悪ければ、無理して予定通りに行動しなくていいのです。ラッシュ時を避ければ、外出先のトイレも案外空いているものです。
逆に言うと、勤め人は、この大いなる基層的な欲求を満たすのにも制限がかかっているわけで、何が「自己実現の欲求」だ、などと、しょうもないことを思っています。
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退職前の年休消化開始から1年。あのホッとした感覚は忘れられない。
私の退職日は今年1/31ですが、その前に年休消化の期間がありまして、その開始日が11/18。つまり昨年の昨日(意味わかる?)。
そう考えると、全く時が経つのは早いものですが、あのときのホッとした感覚は今でも忘れられないのです。
目次
《東京都八王子市・裏高尾》
年休消化開始時の状況
退職前の年休消化や勤務状況については、以下の過去記事にまとめてあります。
【過去の当ブログ参考記事】
簡単に流れを振り返ると、
- 11/15(金)までは業務引継等のためフル出社
- 11/18(月)からは週1~2回程度の出社
- 1/31に正式退職(出社)
となります。
11/18に年休消化開始とはいっても、以降も週に2度くらい出社していたので、サンデー毎日の状態ではありませんでした。
ただ、これまで27年近く働いてきたこと、更には直前の11/15まで、引継および「困難な特別業務」により、息もつけないほど多忙であったため、やっとその荷を大部分下ろすことができたことに、ホッとしたのでした。
そして15日には、修正版をリリースして順調に行くことを確認。これをもってやっとラストスパートが終わったのです。
この日の退社時は本当にホッとしたのを覚えています。そう、最終出社日の1月31日以上に。
(略)
11月18日以降は、完全に後任者が主体となって作業を行い、週1~2回出社の私は、未完了分の引継を行う他は、相談役・助言者としての役割に徹しました。
ただ、これを解放感と称していいものか。「ワーイ、ヤッタ~、もうフル出社しなくていいんだ~」みたいに浮かれるのを解放感というのであれば、私は解放感を感じていません。
とにかく、ホッとした。それに尽きるのです。
【過去の当ブログ参考記事】 リタイアして一週間。不思議な気持ちだが解放感はあまりない。
11月16日はサイクリングへ
翌11/16の段階では、厳密にはまだ年休消化を開始していない、普通の土曜日ですが、早速、サイクリングに行っていますね。行先は、八王子市高尾、都県境である小仏峠方面。
当記事に貼りつけた、小仏峠向けの標識の画像は、そのときのものです(以下、再掲)。会社員生活とリタイア生活の狭間に挟まれた時期、まさに峠ですね。
サイクリングというのは、黙々と漕ぐ作業が主体です。漕ぐということ自体、楽しいし、それに伴って場所や景色が移り変わっていくというのも楽しい。
しかし、単調な作業でもあるため、少しでも心配事などがあると、漕いでいる最中にそのことが頭をよぎってしまって、心の底から楽しめないという特性があります(少なくとも私は、ね)。
そして、それまでのサイクリングでは、この特性から完全に自由になることはありませんでした。このとき初めて純な気持ちでサイクリングに行ったのですが、何も心配事が無いなかで行うサイクリングは、やはり最高でしたね。
11月18日は読書
そして11/18は、年休消化初日。妻は職場に行ったので、家には私一人。この時期は、まだTVをそこそこ視聴しており、この日の朝もモーニングショーを見ました。新型コロナが本格化する前でしたから平和でした。
ただ、TVを見るためにリタイアしたわけでないので、早々に切り上げ、自宅にツン読していた、次の書籍を手にとって読み始めたのでした。
お昼は何だったか忘れたけれど、簡単な食事を手早く作ってそそくさと食べ、読書を再開しました。この本は相当に分厚かったにも関わらず、僅か数日で読み終えてしまいました。
たった、これだけのことなのに、これからのリタイア生活に期待を膨らませ、幸せを感じていたのです。
この幸せは1年たった今でも色あせていない
そして、この幸せが1年もたった今でも全然色あせていない、ということに、自分ってやっぱり適性があるんだなーと苦笑しています。これって、三つ子の魂百までを地で行っているよな、ということは次の過去記事参照。
最近、「何だ、自分がセミリタイア後にやっていることって、小学生時代と全然変わっていないんだな」と気づきました。
「リタイアなんかやることがなくて半年で飽きる」的なコメント、ネットでよく見かけますが、自分のリタイア生活と照らし合わせてみると、まぁ、そう思われるのも無理はないかな、と思います。
しかし、適性があれば、他人がどう思おうが、最高のリタイア生活を送れるのではないかとも思うわけです。自分がどのようなタイプか、その見極めは慎重になった方が良いのでしょうね。
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リタイアすると幸福の人になる理由は「忠義からの解放」
先日、日本国語大辞典なる全13巻の巨大辞書で「幸福」という言葉を調べてみたら、その初出は次のものでした。
すべて忠臣・孝子・貞婦とて名に高きは、必不幸つみつみて節に死するなり。世にあらはれぬは必幸福の人々なり。
これは、上田秋成という人が書いた「胆大小心録(たんだいしょうしんろく)」という随筆に現れるもの。日本国語大辞典によれば1808年と言いますから、江戸時代後期の文化年間ぐらいでしょうか。
ここに「不幸」という言葉と「幸福」という言葉がともに現れ、哲学者の書いた仰々しい幸福論とは一線を画した、上田なりの不幸・幸福論が簡潔に記されている、という点に、興味深いものを感じるのです。
目次
《埼玉県秩父市・秩父橋と旧秩父橋(奥)》
忠誠、孝行、貞操も行き過ぎると、継続する不幸をもたらす
著者と著書については、wikiをリンクしておきますので、興味のある方はお読み下さい。
そして先の引用は『胆大小心録』の第155段に登場します。私の方で訳してみます。
総じて、忠義の家臣、孝行息子、貞操を守る婦人といったことに評判高い者は、必ず、不幸が積み重なって、節義を守るうちに死んでしまうものだ。
(そのような形で)世に知られることの無い者は、必ず、幸福の人々なのである。
忠義、孝行、貞操というのは、何れも「他者のために自分を殺して奉仕せよ」という道徳。
こういうものを突き詰めていくと、世の中からは称賛されるんだろうけど、自分を殺している当人にしてみれば不幸。しかも、一時の不幸ではなくて継続して積み重なっていく不幸。
かといって、忠義、孝行、貞操を止めるわけにもいかない。それらによる心労のためか、あるいは、死をも辞さない覚悟のためか、結局は不幸な状態で死んでいく。かの赤穂浪士も、その一例でしょう。
不忠、不孝、不貞を積極的に勧めるのではないが、忠義、孝行、貞操もホドホドに目立たないようにしておけば、世の中から称賛されない代わりに、気楽で幸福。
分かる気がするなぁ。
現代日本社会では、「忠義」が別格
現代日本社会でも忠義、孝行、貞操という価値観は残っていますが、うち、孝行、貞操については、それを守って人を不幸にする要素はほとんど現代に残っていません。
しかし、忠義だけは別格の扱いを受けていて、これが行き過ぎて、過労死、過労自殺で亡くなってしまったり、会社のために悪に手を染めたみたいなことで逮捕されてしまったりする人がいるわけです。世にパワハラが跡を絶たないのも、忠義が別格扱いであることの証でしょう。
もちろん、現代に「殿さま」はいませんが、「会社」や「職場」、さらには「世間」がその役割を果たしていて、それらの価値観に対して忠義を示しておかなければならない、ということが少なからずあります(内心はともかく表面上は)。
江戸時代であれば、忠義が求められたのは、武士や一部の商人など、組織で働く人限定の話ですが、現代日本では、その「組織で働く人」が大半を占めちゃってます。言うなれば、「一億総忠臣時代」なのです。
そういうなか、競争をさせられ、とりわけ忠義を示したと認められた人、あるいは、忠義の示し方が上手だった人が、出世したりするわけです。
忠義の価値観だけが別格のまま現代まで保存されている理由
孝行や貞操は、単なる親子間・夫婦間の関係であり、これらを軽視したところで、余程のことがなければ、家庭にいづらくなるぐらいの話ですが、こと忠義について言えば、それは社会との関係です。
会社に対して忠義を示せなければ、行きつくところはクビですし、世間に対して忠義を示せなければ、行きつくところは「社会的な死」です。何れも飢えに直結します。
このような状況が、いまだに忠義が幅をきかせていることに一役も二役も買っているのでしょう。
リタイアして「忠義」から解放されると「幸福の人」になれる
そこで、早期・セミリタイアです。
リタイアすると、「忠義」という価値観からかなり解放されます。
まず、特定の組織や上司に忠義を示すがために、自分のことを後回しにする必要が無くなります。
セミリタイア後にバイトをする場合もあるでしょうが、目の前の仕事に真摯に取り組むのは必要としても、忠義を尽くすために、自らの幸福まで差し出す必要など、サラサラ無いのです。
世間に対してもそうです。というか、早期・セミリタイア自体、「勤労の義務」信奉者の多い世間サマに対しての重大なる不義なわけでありまして・・・。ここまで重大な不義を犯しているのであれば、あとの不義など全然大したことない(殺人・窃盗・脱税などの法令違反はここではおいておきます)。
そして、この「忠義」という価値観から解放されると、これまで自分を拘束してきた枷(かせ)が外れ、本当に晴れ晴れした気分になります。上田秋成が言った「幸福の人」という表現はまさに至言ですね。
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「成功指南ビジネス」と早期リタイアの関係とは
お金を欲しがっている人は多く、その手段として古典的なのが「成功者になること」。すなわち、仕事や投資などで華々しい成果を挙げることです。
しかしそれは簡単なことではないので、どうすれば成功できるのか指南する書籍、セミナー、ネット記事などが、多く提供されています。そのようなことを生業とする商売を「成功指南ビジネス」と呼ぶことにします。
「成功指南ビジネス」は随分と昔からあったのでしょうが、 一方で、ここ10年くらいで主にネット界隈で露出度が高まってきたのが、早期リタイア・セミリタイア・FIREとか呼ばれる類。
成功指南ビジネスと早期リタイア、「お金を得るにはどうしたらよいか」という共通するテーマを抱えているにも関わらず、話が噛みあわない点があるようです。
そこで本稿では、両者の関係について、思ったことを書いてみます。
目次
《東京都千代田区:皇居付近》
早期リタイアは、成功指南ビジネスの側からモノ申されている
本稿を書いてみようと思ったのは、最近、成功指南ビジネスの側が、早期リタイアについて否定的に扱ったネット記事を見かけたからです。
お金持ちは「早期退職」したがらない!? お金持ちになれる人の共通点 | TRILL【トリル】
成功者はほぼ例外なく、仕事を楽しんでいます。
だから彼らの中で「アーリーリタイアしたい」という人は多くありません。起業家に至ってはもっと顕著で、ほとんどの人は働けるまで働く生涯現役を当然のものとしています。
読み進めていくと、言葉はソフトですが、早期リタイアに対してモノ申しておられます。
このような記事が書かれるのは、単に、早期リタイアの露出が増えたから、というだけではないでしょう。
成功指南ビジネスでは、「成功してお金持ちになること」が何よりも大切な価値観なのですが、早期リタイア界で最も大切なのは「仕事から自由になること」であって、「成功」も「お金」も単なる手段に過ぎないという位置づけです。
成功指南ビジネスでは何よりも大切にしてきた価値観が、新興の早期リタイア界では低く位置づけされているということに、納得いかない点があるんだと思います。
「成功」「お金」は手段なのか目的なのか?
いきなりですが、次の格言?を紹介します。
レビットのドリルの穴理論とは? マーケティングの基礎を簡単に解説
「ドリルを買いにきた人が欲しいのは
ドリルではなく『穴』である」
お客は「穴を開けたいからドリルを買いにきた」わけであって、そのことを認識せずに、ドリルばかりを売りつけようとしてもダメだ、ということです。
これと同じ話が、成功指南ビジネスと早期リタイアの関係についても言えるような気がするのですね。
成功を志している人(≒成功指南ビジネスの顧客)が本当に欲しているのは何なのか?
- 成功すること自体=ドリルが欲しい人、ドリル・マニア
- 成功して得たお金で楽をする・好きなことをすること=穴が欲しい人
成功指南ビジネスを営んでいらっしゃる方は、私の見る限り、ほとんどが1に重点を置いています。そのため、2の、穴が欲しいだけの人に対しても、頑張ってドリルの素晴らしさを力説する、という、ちぐはぐなことになっています。
それでも、穴を得るためにはドリルを買うしかない、と思われていた時代はそれでもよかったのです。
しかし、最近、早期リタイアというものの露出が増えていて、「自分達が欲しいのはドリルではなくて『穴』なんだけど」と言い始めています。ドリルを買うにしてもそんな高いものでなくていい、下手したらキリで間に合うんじゃないか。
こんな風潮が広がったら、ドリルを売る側にしてみれば痛手ですよね。
冒頭の記事に対してコメントしていく
以上の観点をもとに、先の記事にコメントを加えていくことにします。
早期リタイアすると寿命が短い説
海外では稼いだあとはアーリーリタイアするという人も少なくないようですが、平均寿命は仕事をしている人よりも短い傾向があるそうです。やはり人生には張り合いというか、多少の緊張が必要ということでしょう
どういう統計を持ってきたのか分かりませんが、身体的に弱い人、病気で働けなくなった人だってリタイア年齢は早いでしょう。金が貯まってリタイアする人と一緒くたで統計をとれば、平均寿命は当然短くなりますよね。
「凡人」という表現
一方で、そんな彼らを指して凡人が言う、典型的なセリフがあります。
それは「成功しているのに、なぜ働くのか」「お金がある人が、講演やコンサルをしたり、本を書いたりするはずがない」「結局彼らは、大して儲かっていないのだろう」というものです。
凡人は「お金があれば仕事はしないはず」という前提があり、成功者の仕事に対する姿勢やモチベーションがまるでわかっていません。そして、そういう発想であるがゆえに、仕事で成果が出せないのです。
「成功しているのになぜ働くのか」という疑問は、『穴』が欲しい凡人の側からすれば当然のことです。穴はもう必要な分、あけたじゃないですか。それ以上、ドリルに力を入れてどうするんだろう? ドリル・マニアですか? みたいな。
更にいえば、この「凡人」という表現。
「既に成功したあの人達、そして今成功を目指している俺達は、おまえら凡人とは違うんだ」的な発想が無いと、この文脈でこの表現は出てこないと思いますが、成功を目指す人達のプライドをくすぐるような表現を用いるのも、成功指南ビジネスではありがちなのかも知れません。
まぁ、成功指南ビジネスの対象者ぐらいならこんなものでしょうが、大成功者が、思いの外、謙虚なイメージがあるのは、私だけでしょうか。たとえば、あの(タカビーなイメージのある)ホリエモンでさえも、次のようなことをおっしゃっています。
天才って、確かに実在するし、ぼくはそういう人とも会ってきてる。でも、人並み以上にたくさんの人と交流してきた経験から言えるのは、自分を含めた、世の中の99%以上は凡人だということです。
ぼくの周りの頭のいい人間は、みんなそこに自覚的です。
仕事とは自己表現?
しかし成功者は、お金を稼ぐために仕事をしているのではないし、ましてや生活のためでもありません。
彼らにとって仕事は趣味かゲームのようなもので、自己表現手段でもあります。自分が考えた商品やサービスを世に問い、感謝されてお金がもらえるというのは、まさしく自己表現。
「このドリルすげぇ。一瞬でこんなに綺麗な穴があく!こんなドリル持っている俺、カコイイ! 板でも壁でも持ってこい。何にだって穴をあけてやるぜ!」みたいな感じでしょうか。
もちろん、そういう方々がいるのは否定しませんが、記事にも書かれているように、あくまでそれは趣味やゲームの世界、つまり、自己目的化しているわけです。
ただ、一般的な趣味やゲームについては、それが自己目的であるということが自明ですが、こと仕事に関してはそうではありません。そして、本来、手段であった仕事を自己目的化させていく。
こう考えると、これって、成功指南ビジネスに限ったことではなく、日本社会全体が、そういう言説に溢れているような。成功指南ビジネスは、そのような風潮に乗じて、更に進んだ教えを広めているだけ・・・そんな気がしてきました。
「自分らしく穴をあけるためにはいいドリルが必要」
だからまずは「アーリーリタイア」という発想は捨て、目の前の仕事を好きになるか、仮に一時的に収入が減ったとしても、夢中になれる仕事を選ぶことです。
「『穴』があけられれば、ドリルでなくたって別にいいじゃないか」という、早期リタイア者の論は、成功指南ビジネスの側にとっていかにも都合が悪い。
そこで、「ただ『穴』があけばそれでいいわけじゃない。楽しく、自分らしく穴をあけるためには、いいドリルが必要なんだyo!」みたいなことを結論に持ってくるわけです。この論法は、以前紹介した「仕事の道楽化」によく似ていますね。
【過去の当ブログ参考記事】 「道楽の仕事」は早期リタイア後にやればよい
成功指南ビジネスが、隣接分野である早期リタイアからの差別化を図ろうとすると、やはりこういう論法になっていくのでしょう。
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リタイア生活に袋麺は使えるヤツ。カップ麺は会社員向きか?
リタイア後の食事は自炊が主体ですが、毎食あまり凝ったものを作るのは面倒臭いものです。そこで、朝と昼は簡素に、あるいは朝昼まとめてブランチとし、何れも12時前には食べ終える、という生活を続けています。
【過去の当ブログ参考記事】
そして、ブランチまたは昼食のバリエーションとして、時折、袋麺(袋入りラーメン)を取り入れています。リタイア生活に、(カップ麺は微妙だが)袋麺はなかなか使えるヤツだな、と思うので、少し書いてみます。
目次
《埼玉県比企郡ときがわ町 稲穂と八高線》
袋麺を使うようになったキッカケ
実は少し前まで、「若者の袋麺離れ」が起きており、メーカーは苦慮していました。
どうして袋麺は苦戦を強いられているのか。その背景には“若者の袋麺離れ”が顕著になっていることが挙げられる。
「カップ麺はいつでもどこでもお湯を注ぐだけですぐに食べられる簡便性がある一方で、袋麺はどうしても麺を茹でたり鍋や器を用意したりと調理に時間と手間がかかります。そのため、特に若い人たちは不便さを感じて、袋麺からカップ麺へのシフトが年々進んでいるのです」
既に若者でなくなってウン十年の私も同様に、袋麺という存在はどうも中途半端に感じていたので(どうせ調理するなら生麺を使う)、手を出すことはありませんでした。
しかし、リタイア直後コロナが本格化したので、買い溜めの対象の一つとして袋麺も買っておきました。生麺は買い溜めできませんから。
【過去の当ブログ参考記事】 首都封鎖に備え買い溜めに走った。愚かと言われようと。
同じように考えた人が多いようで、コロナの巣ごもり需要で即席麺、特に(カップ麺より)袋麺の人気が再燃しているそうです。
袋麺絶好調の背景に指摘されているのが、コロナ禍による“巣ごもり生活”。カップ麺に比べ、袋麺は基本的には鍋で調理するため手間がかかる。そのため、若者を中心にひところは袋麺離れが話題になることもあったほどだ。
ところが、巣ごもり生活で時間的な余裕ができたことで、調理の手間がさほど苦にならなくなり、逆に味付けやトッピングなどアレンジを工夫できる幅の広さというメリットが見直されたことも大きい。
で、実際に使ってみると、巣籠もり生活、あるいはリタイア生活になかなか使えるヤツだということが判明したので、緊急事態宣言終了後もリピートしています。
袋麺の使える点
買い溜めがきき、保管が楽
先述の通り、生麺と違って、常温で長期間保管することができるので、冷蔵庫を占有することなく、買い溜めがききます。
また、商品がコンパクトなだけでなく、形がほぼ統一されているので、戸棚にしまう際も、比較的少ないスペースで多くの商品を保管できます。
カップ麺も冷蔵保管する必要が無いのは同様ですが、カップの分嵩張るし、形が商品によりバラバラなので、保管にはかなりのスペースを要してしまいます。
カップ麺に比べ安い
袋麺はパッケージがシンプルで乾燥具材などが付属していないからか、カップ麺よりも総じて安い。
調理時間も手間もカップ麺とそんなに変わらない
カップ麺は、お湯を沸かして、スープを投入して、お湯を注いでn分間待てば、出来上がる、というシロモノ。一見、インスタントですが、お湯を沸かす時間、待つ時間があるので、なんやかんやで10分近くかかります。
これだけ時間があれば、袋麺だって作れちゃいます。
私が主に食しているマルちゃん正麺の場合、お湯が沸騰したら、麺を一定時間ゆで、その後、液体スープをあけておいた器に、湯ごと投入するだけ。全然大したことない。
ありあわせの食材で豪華に変身。栄養もある。
もっとも、これだけだと味気ないので、麺をゆでているお湯に、卵や、乾燥わかめ・乾燥野菜などもぶち込む。ネギも刻んでおく。仕上げに海苔やハム、ゴマなどを載せる。
これらの作業のほとんどは、お湯を沸かしている間、あるいは麺をゆでているのと並行して行うので、カップ麺に比べて時間がかかるわけでも無い。
にも関わらず、カップ麺に比べて、圧倒的に豪華な仕上がりになるのです。具材も沢山入れるので、カップ麺に比べれば栄養もあります。
うまい
袋麺は、カップ麺より商品数は少ないですが、それだけ定評のある商品が幅を利かせていますし、前項のようにアレンジがきくので、うまいです。生麺に近い触感をウリにしている商品も多いです。
カップ麺に比べゴミが少なくて済む
カップ麺を食した後、どうにも厄介なのは残ったカップです。
そのまま捨てるのは不衛生ですから、水ですすいで乾かす。その後、はさみでバラバラに切って、有料ごみ袋の中で自己主張しないようにする。
しかし、袋麺ならゴミは袋だけですので、そのまま捨てられます。
袋麺はリタイア生活と相性がいい
以上、袋麺の利点を書いてきたのですが、これは自宅で調理する場合、という注釈付です。
というのも、職場において、共用の給湯室に、具材やマイ器、マイ鍋を持ち込んで、袋麺を調理するということのハードルはかなり高いからです。そのため、職場で即席麺を食べる場合は、ほぼカップ麺一択になります。
リタイア生活の場合は、自宅での食事がメインなので、カップ麺に特別の思い入れが無いのであれば、袋麺の方に軍配があがるのではないでしょうか。
「昼は何を食べようか。昨日はご飯、その前はパスタだったな。今日はラーメンにするか」と何となく思い立ったとき、買い置きしてある袋麺は大変に重宝するのです。
生麺のように保存期限は、カップ麺ほどのインスタント感が無い袋麺は、リタイア生活と相性がいいなぁと再認識した次第です。
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コロナ第3波をマッタリとやり過ごす
コロナ第3波か?と騒がれています。そもそも第2波だってピークよりは減ったと言えど、横ばい状態で来ていて、おさまったとは到底言えない状況。そんな中で、再度の感染拡大です。
コロナでなければやりたいこと、私にも色々とあるのですが、これじゃどうしようもない。リタイアした身分を生かしてマッタリとやり過ごすという感じになりそうです。
目次
《東京都奥多摩町》
コロナで困っていること
合唱が出来ない
以前から当ブログで書いていますが、やはり趣味である合唱ができないというのが辛い。
先日、以前入っていた合唱団の人と連絡をとる機会があったのですが、やはり相当に悩ましいことになっているらしい。練習はできず、かといってこのまま何もしないでいたら、合唱団自体が無くなってしまう。
もちろん、ただの趣味の団体ですから、無くなったところで社会的影響はありません。しかしその団体に所属している人達には思い入れがあって、社会的影響が無いから無くなってもいいだろ、というわけにもいかない。どうにか存続の道を模索しているということのよう。
私も、この状態では動きようが無いので、一年くらいはお預けかな、と思っています。
年末年始の帰省
あまり注目されていませんが、 個人的には次の記事はビックリしましたね。
菅内閣を「支持」 1ポイント上がり56% NHK世論調査 | 選挙 | NHKニュース
ことしの年末年始に帰省や旅行をするか聞いたところ、◇「する」が8%、◇「しない」が67%、◇「まだ決めていない」が20%でした。
過去、年末年始になると中継される新幹線自由席、高速道路、成田空港などの混雑ぶりと、最近のGoToの賑わいを見る限り、年末年始の旅行者はもう少し多いかなと思っていたら、何と3分の2は、「しない」とのこと。
実は我が家、昨年末は、夫婦揃ってインフルエンザで、予定していた旅行や帰省を全てキャンセルしてしまったので、今年こそは!と思っていたのですが、今の状況を見る限り、年末年始って、一番やばそうな時期ですよね。
二人揃っての旅行はやめて、一人一人がそれぞれの実家に帰省するにとどめる、なんてことも考えています。
「経済を回す方」にはなりたくない
今の政府の方針は「経済と感染防止の両立」。経済を回しつつつ、「事実上のロックダウン」に陥らないよう、できる限りの感染対策を行なっていく。アクセルを踏んで、やばそうだったらブレーキをかける。
その方針は理解します。というか、そうするしか無い。尾身会長といえど、魔法のような方法など持ち合わせていない、というのが現実なのでしょう。
だから、繁華街が再度賑わっているのも、満員電車が復活していることも、直接的な批判はしません。仕事があって通勤しなくてはならない人はもちろんのこと、待ってましたとばかりに、浅草やスカイツリーなどの密な場所に群がってくる人々、ああいう人達も一定数は必要なんだと思います。
ただ、自分が、ああいう人達と一緒になって「経済を回していく方」になりたいか、といえば、そうではありません。
私だってやりたいことは、前項で述べたことや、その他にも色々あるのですが、多くは様子見にしています。歌いたい気持ちは、昼カラオケで感染している高齢者に負けず劣らずあると思いますが、「今はガマンの時期だ」と考え、そっち方面は手を出さないようにしています。
月並だが3密は避けて楽しむ
ただ、幸いなことに、「3密」を避ければかなりリスクを抑えられる、ということが判明しています。3密の場所でワイワイガヤガヤしていると、空中に飛沫が大量に漂う事態になって、感染するのでしょう。
他にも接触感染とか空気感染とかありますが、3密の場所での飛沫感染に比べれば、かなり小さい確率でしょうし、逆に、3密の場所では、どんなにお店や客が感染対策を行なったところで、無力に近いのではないか、というのが私の個人的見解です。
例えば、換気や間仕切りをしていても、多人数が大声で話していれば、換気や間仕切りによる飛沫抑制効果を遥かに上回る飛沫の供給があるような気がするのです。食べ物を口の中に入れるときだけマスクを取る、なんてのも非現実的だし。
そこで、私の行動方針としては、とにかく「3密は避ける」。あるいは、「いかにも飛沫の多そうな場所」は避ける。
だから、合唱はしばらくやらない。遠隔地への旅行も、移動中の列車内や外食など、大勢の人が大声で会話をしている状況は多いから、なるべく避けたい。
逆に、それらの条件を避けて行動するのなら、比較的低リスクで外出することも出来るんじゃないかな?と考えていて、そういう楽しみは積極的に続けていきたい。
私の場合、そのような楽しみはハイキングやサイクリングになりますが、たまには外食もしたい。宴会的なものは危険だが、ディスタンスを保ちつつ少人数が小声で話すくらいにとどまる店ならば、無闇に避ける必要はないと思う。
昨日の当ブログ記事。
【過去の当ブログ参考記事】 「かわり映えしない退屈な日常」が実は幸福なのだと実感するには
この記事にも通用することだけど、「○○ができない」ということより「○○ができる」という方向に目を向け、マッタリとコロナをやり過ごしていきたいです。
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⇒50歳でセミリタイア達成!その概要を書きます
「かわり映えしない退屈な日常」が実は幸福なのだと実感するには
今回は次の記事。20代女性・事務職の方のお悩み。
かわり映えのしない退屈な日常こそ「最高の幸福」であるのはなぜか 哲学者はこう考える(小川仁志)
Q テレワークで毎日代わり映えしない生活に嫌気がさします
A よいことも悪いことも含めて何も起こらない、その平凡こそ幸運なのです
ということで、哲学者たる回答者は、「かわり映えしない退屈な日常」の良さを述べていきます。
私もリタイアして、「かわり映えしない退屈な日常」を続けているので、その良さというのは十二分に理解できるのですが、リタイアを考えていない20代の女性に、その良さを伝えるというのは、哲学者であろうと難しいのではないかな。
目次
《東京都八王子市戸吹地区:収穫近し》
子供の頃、戦争の話を聞かされて
私の親は戦中生まれなので、直接、戦争で苦労したわけでないにしろ、相当に貧しい時代を過ごしています。まして、更にその親は明治生まれで直接戦争を体験しています。
だから、親は私に、戦争によっていかに自分達は貧しい暮らしをしていたか、ひもじい思いをしてきたか、あるいは、今(当時は昭和50年代)は平和で食べるものにも苦労せず、どんなにいい時代であるか、ということを話していました。
戦争していた時と比較すれば、当時(昭和50年代)がずっとずっといい時代なのだ、ということは理解しましたが、ただそれが「最高の幸福」であると認識するのには、当時の私はあまりにも幼かった。
そんなことよりも、ただただ、他の子が持っているオモチャを自分も欲しかった。。。
昭和50年代よりも、令和の方が更にいいのだが・・・・
とかく、昭和の時代はスバラシイ、それに比べて令和の時代は格差が広がっていて不幸だ・・・みたいなことを言われがちですが、私に言わせれば、こんなに恵まれた時代って、そう無いですよ。以下、過去記事より。
私の子供の頃との比較
- 食糧事情
- 100円ショップ
- 娯楽
- 住環境
私の子供の頃に比べれば、世の中は進歩しており、当時は高給取りでなければ出来なかった生活が、現在はかなりの低所得層でも可能になっているということです。
ついでにいえば、マスコミでは、私の子供時代よりも豊かそうにしている人が「生活に困っている人」として紹介されていたりします。
昭和の時代は格差が小さくて、誰もが希望が持てて・・・なんて言う人が多いけど、それウソですから。戸建に住んでいる家がある一方で、次の記事に出てくるような風呂なし1Kボロアパートに家族で住んでいるのも普通でしたから。
だから、低所得者といえど(というか低所得者だからこそ)、昭和50年代よりも令和の今の方が生活レベルは上がっているのですが、こういう話をしたところで、今の若い方には響かないでしょう。頭では理解したとしても、「幸福」という実感は持てないのです(「最高の幸福」とは言わないまでも)。
それは仕方が無い。私の子供時代だって、戦争の話を聞かされて「それと比べて今は幸福だ!」なんて、実感は持てなかったのですから。
「自分には○○がある!」という幸福より、「自分には○○が無い・・」という不幸
昭和50年代の私にしろ、令和時代の若者にしろ、日本史上これほどモノ・サービスに恵まれている時代はかつて無かったであろうにも関わらず、「最高に幸福」どころか、不遇に思ってしまう。
それはそうだ。今の若者は昭和を実体験したわけでないし、私だって、昭和のラスト20年のことしか知らない。だから、多くの恵まれたモノ・サービスなど、生まれたときから無条件に存在しているものであって、そこに幸福感を感じることなんてない。
一方で、「あなたには、これがありません」といちいち教えてくれる情報が、世の中には満載です。以下、過去記事。
- 学校ではよりよい成績を収めて、より上の大学や就職先を勝ち取ることが期待される。
- 会社では、常に前年より上の数字を目標値として設定させられる。
- 一流スポーツ選手が「もっと速く、もっと強く」と言いながら、ストイックに練習している映像が流れる。
- CMやマウントなどにより、ある特定の商品を持っていない、サービスを受けていないと惨めだと思わされる。
だから「自分には○○がある!」という幸福より、「自分には○○が無い・・」という不幸を感じやすいのです。
ついでに言えば、マスコミや政治の世界では、平均より下の生活レベルの人に対して「あなたは、既にこれだけ持っているんだから、もう充分だろう」というのは、(多分)ご法度。
マスコミ「○○も持てないような人がいる!政府は何とかしろ!」
政府「善処します」
でも、ほとんどの場合、本当に○○を与えてくれるわけじゃないから、結局、人々に「○○が無いことは不幸なのだ」という不足感を植え付け、怨嗟を募らせるだけの結果に終わる。
「もう充分だろう」という言葉が言えないために、かえって(「不幸」というより)「不幸感」を募らせているという側面はあるのではないでしょうか。そして、その傾向は、私が子供の頃より今の方がずっと強いと感じます。
冒頭の「代わり映えしない生活に嫌気がさしている女性」について言えば、経済的に潤っているとまでは言えないまでも、事務職について普通に生活出来ていることによって、「自分が既に持っているもの」は非常に多いはずなのです。
なのに、「外に出て何かをする機会」が一時的に失われている、ただそのことをもって不幸に感じてしまうわけです。
「持っていないもの」よりも「持っているもの」に着目
すると、自分が幸福と感じるようにするためには、「持っていない」ことを嘆くよりも、「既に持っているもの」に着目すべきということになります。
冒頭の記事では、
アメリカの哲学者エリック・ホッファーは、よいことも悪いことも含めて、まったく何も起こらないのは非常に運がいいと言っています。(略)
「1日2回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが、私にとっては生活のすべてである」。彼はそう言っています。
などと書かれていますが、現代日本では、これより遥かに多くのものを人々は持っているでしょう。その大半は、時代が時代なら、影も形もなかったか、あったとしても相当に品質の悪いものだったはずです。
あるいは先の下北沢のボロアパートに住んでいた女性は、
佐々木さん「だから今は、自分の好きな街に帰れる家があること自体がうれしいんですよね」
とおっしゃっています(もっとも他サイトによればその後引っ越したようですが)。
このような考え方が出来るのならば、 「かわり映えしない日常」で暮らしていけることが、いかに幸福なことか、実感することが出来るかもしれません。ただ、現代社会ではなかなかそのように捉えることは難しいのでしょうね。
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「稼げない人は価値が無い」という発想で人生後半に幸せになれるか?
今日は次の記事。
人生後半戦に「価値のないオジサンになる人」と「ずっと稼げる人」の8つの分岐点
人生の後半戦に「価値のないオジサン」にならないためにはどうすればいいのか。マーケティングコンサルタントの酒井光雄氏は「年齢にかかわらず、成長を続ける人は自問と行動を繰り返す。仕事を通じて自身のブランドを築くことが、人生の後半戦を左右する」という――。
この標題は「稼げない人は価値の無いオジサンである」ということと、ほぼ同義だと思いますが、なかなか辛辣ですね。
もっとも標題をつけたのは、おそらく酒井氏ご本人ではなく、プレシデントの編集部だと思いますが、記事の内容はここまで辛辣でないにしろ、大同小異です。
記事内容を完全否定するわけではないにせよ、それを実践して幸せになれるのって、ホンの一握りではないのか?などと思うわけです。
目次
《東京都奥多摩町:仏様の脇に宝暦4年(1754)とある》
大半の40代後半~50代は、職場において「アガリ」になる
40代後半から50代にかけて定年退職が視野に入り始めると、これから自分はどれだけ実績を上げ、どんな評価を得られるかを自身で把握できるようになります。この年齢で管理職に昇進していなければ、これから先も役職に就く可能性は限られ、収入は増えていきません。
(略)
40代後半から50代に「アガリになる人」と、「伸び続ける人」との分かれ目はどこにあるのでしょうか。その分岐点ともいえる8つのポイントを踏まえて、後半戦も社会が求める人材として活躍できるように自身をチェックしてみてください。
これの前半部分は、概ね正しい認識だと思います。以前も当ブログで次のような記事をアップしています。
【過去の当ブログ参考記事】 中年の危機 ~40代の悲哀を考える~
ただ、後半部分、40代後半から50代において、「アガリになる人」と「伸び続ける人」はフィフティ・フィフティで存在するのではなく、前者が大半であり、後者は一部である、という点が抜けています。
また、ここでいう「アガリ」とは、「職場において、より上の役職について収入を増やす、という可能性が断たれた」という、限定的な状況であることにも注意。
逆にいえば、「伸び続ける」とは、「職場において、より上の役職について収入を増やす」ということになります。
職場で「伸び続ける」を目指しても、多くの人は幸せになれない
「伸び続ける」って、字面上は、いかにも良いことであり、誰もが目指すべきことのように捉えてしまいますが、「職場において、より上の役職について収入を増やす」と具体的に言い換えてしまうと、その言葉にまとわりついていた普遍的なニュアンスが取り払われ、限定的・個別的な話になってきます。
逆にいえば、「職場において、より上の役職について収入を増やす」という限定的・個別的な話でしかないモノに、「伸び続ける」といった美辞麗句が冠され、それが普遍的な価値があるかのように扱われ、「伸び続ける」ことに邁進させられるのが、多くのサラリーマンの姿です。
それでも、定年に至るまで「伸び続ける」がことが本当にできるのなら、努力が報われて幸せなんでしょうが、先にも述べた通り、40代後半・50代になると、大半は頭打ちになります。
大半の人が、いつまでも伸び続けるなんて出来っこない仕組みになっているのに、「稼げない人は価値が無い」などと煽られて、40代後半・50代になってもなお、不毛な「伸び続ける」ための努力をさせられ、やっぱり伸び続けることが出来ずに、定年を迎えることになる。
不幸とは言わぬまでも、あまり幸福ではなさそうなストーリーです。
仕事とは別のところに価値を見出す
これまで述べた、
- 稼げない人は価値が無い
- アガリになる人
- 伸び続ける人
というのは、あくまで、仕事、しかも出世目線の言葉。
仕組み上、40代後半以降は「アガリになる人」が大量に発生してくるのは避けられないわけで、それを一律に「稼いでいない、価値の無いオジサン」と言うのもどうなのかな、と。
文句を言うばかりでもしょうがないので、いくつか提言っぽいことも書いてみます。
私が思うに、「伸び続ける」ということにいつまでも拘るから、苦しい状態が続く。伸びる伸びないって、たかが職場の地位や収入といった限定的な話です。
そこで、まずは、40代後半になったら、「伸びる伸びないといったことを忘れて、今までのキャリアの範囲内でよいので、目の前の業務に真摯に取り組む」ということ。
出来もしない「伸び続ける」努力を続けるよりは、その努力を「積み重ねてきたものを良い形で生かす」方に振り向けた方が、いい結果が出るのではないかと思うからです。
もう一つは、仕事とは別のところに価値を見出しておくことです。
先の記事では
成長を続ける人は、「仕事を通じて、(略)
人生の分岐点を迎えても、年齢によって自分の限界を決めつけることなく、自身の可能性を拡張するために知恵を使い行動を起こしましょう。「アガリの人」などという概念は自分自身で払拭し、一度しかない人生を価値あるものとして過ごしてください。
などとありますが、「アガリの人」「一度しかない人生を価値あるものとして過ごしてください」というのが、仕事・出世目線の捉え方でしかないことに、発想の狭さを感じます。
しかし、人生には、仕事の他にも様々な要素がありますから、そういうところに価値を見出しておけば、たとえ、職場では「アガリの人」となっても、その分野ではまだまだ伸び代はあるわけです。
つまり、トータルで見れば「アガリの人」でも何でもない。稼げないからって価値が無いわけでもない。
人生後半戦においては、この人の言うようなことはあまり役に立たず、「仕事・出世とは別の価値観」を、自分の中に醸成しておくことが幸せになるポイントではないか、と個人的には思っています。
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二拠点生活なんて楽勝。場所はトカイナカが狙い目だろう。
コロナのテレワークの影響で注目されているのでしょうか、地方移住&2拠点生活の特集が、例のダイヤモンド・ザイ12月号で組まれるそうです。
ただ、こういう話になると、必ず「そんなこと出来っこない!」という声が大半を占めることになるんですが、地方移住はともかく、2拠点生活なんて楽勝ですよ? 実際に2拠点生活していた私が言うんだから間違いない。
【過去の当ブログ参考記事】 リタイア前に二拠点生活していた私、そのリアルを語る
目次
《東京都檜原村:秋川の水面》
難易度を上げ過ぎることが、2拠点生活を失敗に導く
2拠点生活が失敗するのは、恐らく、難易度を上げ過ぎるからですね。
もちろん、難易度が高いということは、それだけ秘境感漂う場所で非日常的な生活を送ることになるので、成功すれば、かけがえの無いものになります。ただ、やはり難易度の高さがネックになるのです。
例えば、冒頭の記事は、東京都心部と東京檜原村での2拠点生活ということですが、檜原村は下手な周辺県の郡部よりも難易度が高い場所です。
自然環境、買い物、交通、住居、人との交流・・・。
生活環境の厳しさの点では、山梨県の山岳地域などとほとんど遜色ありません。ただ、東京都にあるために、「お気楽な田舎」としてバイアスがかかっているだけです。
そのため、移住にしろ2拠点生活にしろ、かなりの目的意識が無いと難しい場所です。冒頭の記事で紹介されていた方は事業を目的とされているので、まぁ大丈夫だと思いますが。
難易度を下げろ
じゃぁどうするのか?
簡単な話。
難易度を下げればいいのです。
前項では色々と脅すようなことを書いてしまいましたが、それは、
- 自分に見合った難易度の場所を選んだ方がいいよ。
- メディアなどで紹介されているパターンは、結構難易度が高かったりするので気をつけなよ。
ということであって、2拠点生活自体の難易度が高いのではありません。
大体、2拠点生活とか地方移住となると、次の記事のようなアドバイザーが出てきます。
この手のアドバイザーは、「難易度の高い地方移住・2拠点生活」を達成された方が多いので、逆に言えば、「難易度の高い方法」しか頭に無く、その結果、「甘っちょろい考えで地方移住・2拠点生活など考えるんじゃないぞ」と、その困難さを強調しがちです。
すると、これを読んだ人が「あぁ、やっぱり地方移住とか2拠点生活なんて馬鹿なことはするべきじゃないんだ。都市部に住んでいる自分は正解なんだ」と、自らの現状維持バイアスを肯定する材料として利用するわけです。
難易度を下げる方法
とはいえ、2拠点生活なんて、別にそんな難しいことじゃありません。ズボラな私でさえ、3年も続けられたくらいですから。
【過去の当ブログ参考記事】 リタイア前に二拠点生活していた私、そのリアルを語る
今住んでいるのと別の住宅を用意して行ったり来たりする。ただそれだけのことです。極端な話、別宅の最寄駅が本宅の隣の駅であっても全然構わないわけです。
さすがに隣の駅では味気ないということであれば、なるべく自宅に近いトカイナカを候補にすればよい。そう、これまであなたが田舎だと見下していた近隣地域ですよ。
昨日、次の記事をアップしましたが、同様の理由で、安く2拠点生活する場合でもトカイナカが手っ取り早いのです。
【過去の当ブログ参考記事】 貧乏リタイアにはトカイナカが手っ取り早い?
例えば、青梅市の1Kの賃貸であれば2万円台、2Kなら3万円台からあります。単にテレワークが出来ればよいとか、気分がリフレッシュできればよいというのであれば、これで充分。
トカイナカなので買い物には困らず、その気になれば車もいらない、というのは貧乏リタイアにはトカイナカが手っ取り早い?で書いた通り。
ネットも、トカイナカ程度ならどうにでもなる。
ガスは契約しない。料理は、IHかカセットコンロで。お風呂に入りたいのなら、次の機器を使う。
家具や寝具はなるべく自宅にあるものを流用し、自家用車か、割安な引越パックを利用して、新たな別宅へ運んでおく。
2拠点間の移動も、「自宅に近いトカイナカ」であるなら、時間的にも金銭的にも、それ程の負担にはならないはず。
そして金曜日の夜は会社から別宅へ直行し、 月曜の朝は別宅から会社へ直行する。これで、週に足かけ4日、別宅にいることができる。
このような形で最低1年暮らしてみて、その地が気に入れば、今度は、トカイナカの方を広い本宅、都会を狭小の別宅とすれば、住宅費は大幅に抑えられる(ちなみに、冒頭の記事の檜原村家賃8.5万円は高すぎ)。
もし、その地での2拠点生活が向いていないな、と思ったら、その地の賃貸を解約し、1拠点生活に戻すか、別の地での2拠点生活を始めればよい。
こうすれば、結構手軽に、低リスク・低負担の2拠点生活が営めます。低負担であることから、成功確率も高くなるでしょうし、仮に失敗しても痛手は小さく、経験値が上がったんだと考えれば、充分ペイするものだと思います。
近隣のトカイナカの2拠点生活ってつまらなくはないか?
問題はこれですよ。
「せっかく2拠点生活するのに、近隣地域なんてつまらなそう」ということで、秘境感・非日常感を求めて、遠隔地、更にはガチの田舎に目が行っちゃうんでしょうね。でも遠隔であればある程、田舎度がガチであればある程、難易度は飛躍的に上がります。
それよりは、「近場」をもう少し見直してもよいのではないか、と思います。大都市であっても、その中心部から普通電車で1~2時間も行けば、著名な観光地でないにせよ、結構、自然豊かな場所に行きつくはずなのです。本当は良い場所なのに、近場ってだけで変なバイアスがかかってしまう。
特に、2拠点生活を考える人などは憧れが先行してしまいがち。でも、憧れで生活はできないですから、そこは地に足のついたプランを立てることが必要なんだと思います。
【過去の当ブログ参考記事】 リタイア前に二拠点生活していた私、そのリアルを語る
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貧乏リタイアにはトカイナカが手っ取り早い?
リタイア後どこに住むかは人それぞれですが、金を使わずに貧乏リタイアしたいなら、都会と田舎の中間に位置する「トカイナカ」あたりが手っ取り早いのではないか、という話。
今更な気もしますが、一応書いてみます。
目次
《山梨県上野原市:中央本線四方津駅、コモアしおつの最寄駅》
トカイナカを「理想郷」だと言う森永卓郎氏
低年収で暮らすならやっぱりトカイナカだろ!と、トカイナカ押しなのが、経済がご専門の森永卓郎氏。自身も所沢のトカイナカで暮らしている、ということで、その経験に基づいた記事が時折ネットにあがります。
年収200万円代でも豊かに暮らせる理想郷「トカイナカ」の魅力
じつは、私は30年以上前から都心から1時間半もかかる都会と田舎の中間に存在する「トカイナカ」で生活しており、そこから都心に出稼ぎに出ています。
東京と比べれば、自然も豊かで、人の密集もはるかに少ない。近隣の農家が作った農産物を直接買うこともできます。私自身、畑を借りて、野菜作りもしています。こうしたトカイナカこそ、年収200万円時代でも豊かに暮らすのにふさわしい「理想郷」なのです。
ただ、この手の記事がヤフーなどに上がると、大抵は評判がよろしくない。森永氏は200万よりもっと沢山もらっているだろ、とか、所沢は充分都会だろ、とか、あまり森永氏の真意を汲もうとしていない批判が多い。
まぁ、それはそれとして、森永氏がトカイナカ推しなのは、私も理解するところです。
トカイナカとは・・
私が思うに、トカイナカといっても、2種類あります。
- 大都会(東京、大阪、名古屋等)の郊外で自然のあるところ
- 地方都市の中心部以外で、中心部からそれほど離れていないところ
私が経験しているのは1なので、以下、1を念頭に置いて書きますが、2についても当てはまることは多いと思います。
住宅費は安く、車無しでもいける
リタイア生活の大きな敵は、やはり固定費です。固定費の中でも更に目の敵にされがちなのが、住宅費と車。そして、トカイナカだと、どちらも抑えることが出来るのが大きいのです。
東京で立地のいいところだと、6000万や7000万ほど出しても猫の額ほどの広さの家(マンション)しか買えませんが、トカイナカなら新築でも2000万ほどから充分な広さの戸建を売っています。中古を視野に入れれば、数百万円でも可能。
【過去の当ブログ参考記事】 コロナで注目?郊外の中古住宅、リタイア住居としてはどうなのか?
ちなみに10年ほど前、埼玉県の某トカイナカ地域で、値下げの末に1180万という驚愕の価格となった新築建売を見たことがあります。最近は、コロナで若干値上がり傾向ですが、程なく頭打ちになるでしょう。
このように住宅費を抑えることで数千万が浮くことになりますが、この数千万が、リタイア生活にとっては非常にデカイのです。
そして、自宅の庭に車を止めてしまえば、駐車場代などいらない。
何なら、車など持つこと無く、自転車で生活してもいい。ガチの田舎なら無理でしょうが、トカイナカなら可能。
私が住んでいるのは、青梅の中でも、トカイナカというよりは田舎というべき地域ですが、車が多数派とはいえ、自転車もそれなりに見かけます。
「トカイナカ」地域まで下りると、更に自転車は増えます。近隣の飯能、高尾、あきる野、日の出なども同様であることを考えると、トカイナカでの自転車生活に、それほどの高いハードルは無いのだと思います。
【過去の参考記事】 郊外リタイア生活の移動手段。車は必要か?
都会から離れるなら車必須・・・的な固定概念みたいなものを感じるのですが、少なくとも、トカイナカに関してはそれは思い込みではないでしょうか。
限界集落はともかく、トカイナカの物価は高くない
田舎に行くと物価が安い・・・・のアンチとして、田舎は実は物価が高いのだ、という議論が盛ん。
【定年後の落とし穴】田舎暮らしは生活費安上がり…はウソ! - 経済・マネー - ZAKZAK
「安いのは家賃ぐらいだっぺな。東京と同じ生活をしようと思ったら東京以上にかかるよ。物価は全然変わんないね。電化製品とか日用品なんかは、東京に比べたらこっちの方が高いぐらいだよ。秋葉原の家電街とか、ディスカウントの多慶屋(たけや=東京・御徒町の有名格安店)なんかねーしさ。スーパーの食料品だって東京と変わらん。いや、ものによっては東京の方が安い。下町の商店街なんかへ行くとすげー安いんでびっくりするよ」
限界集落みたいなところはともかく、トカイナカに関していえば、物価が高いなんてことは無いと思います。
「田舎の方が物価が高い」の理由として、「都会と違って競争が無いから」ということが挙げられますが、トカイナカについてそれが本当とは思えない。
確かに、店舗はそれほど密集していませんから、都会の常識だとあまり競争が無さそうに一見見える。
ただ、車での移動が盛んであるため、一つの店の商圏が広くて、離れた店舗の商圏とバッティングしています。ある店が割高ならば、離れた別の店へも車で行けるから、競争はあるのです。スーパーが1つしかない駅前なんかよりは、競争は熾烈ではないでしょうか。
更にいえば、家賃単価が低いですから、店舗は大型になって、これが品揃えの豊富さやスケールメリットに繋がっていきます。
ただ、これらのメリットを享受するには、数万規模の人口が必要なので、ガチの田舎では難しく、トカイナカということになるのです。
まぁ、限界集落のように、さびれた雑貨屋が一つだけ、というところなら物価が高くなるのは当然です。
でもそういう地域の方々の多くは、自給自足や地域の助け合いで、あまりモノを購入することなく質素に生活されているわけで、半ば資本主義の枠外におられる人達なのです。
さびれた雑貨屋だって、割高とはいえ、競争が無いのに乗じてぼろ儲けしているわけが無く、ほとんどボランティアみたいなものでしょう。都会の映画館やテーマパークの中の売店よりは余程良心的ではないでしょうか。
そういう所に考えなく飛び込んでいった、元・都会人の失敗談をネタにして、都会の価値観ムキ出しに、「田舎は生活費が高い、だから田舎はダメなんだ」と言わんばかりの記事を書く。
これは、彼らの生活圏に土足で踏み込むようなものであり、限界集落をいちいち引き合いに出さないと、都会の優位性を確認できないのか?などと、私の目には映るのですが、いかがでしょうか。
いざというときは都会にアクセスできる
それはともかくとして、トカイナカだと、いざというとき、都会に容易にアクセスできるというのも大きい。当ブログでは都会を否定的に扱うことが多いですが、それでも都会と全く無縁でいるわけではありません。
私が今住んでいる青梅の場合も、やや遠いとはいえ、最寄の繁華街である立川・八王子や、山手線内へ普通・快速列車だけで行けるというのは、結構、安心感があります(もっともリタイア後は、立川を超えて都心側に行ったことは全く無いのですが)。
23区外である立川や八王子レベルでも充分発展しているし、頑張れば、都心部へも通えなくはない距離なので、ガチの田舎のように仕事(賃金労働)が無い、ということもありません。東京都扱いなので最低賃金も高く、リタイア後のバイトにオススメ。
何なら、早々に自宅をトカイナカに移してしまって、そこから数年間、都会へ頑張って通勤した後、リタイア生活にそのまま移行する、という作戦も可能です。例えば、次の過去記事のように。
【過去の参考記事】 リタイア前に二拠点生活していた私、そのリアルを語る
「手っ取り早い」が最適とは 限らない
以上、トカイナカでセミリタイア生活を送ることの利点を述べてきましたが、あくまで「少ないお金で手っ取り早くリタイアする」という観点で書いており、全ての人に最適、ということではない、ということは言っておきます。
都会の様々な施設や店で楽しみたい、あるいは、農業を本格的にやりたい、という場合は、トカイナカはあまり向いていないのではないか、と思います。
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50歳リタイアは若年リタイアとは異なる発想
リタイア年齢が50歳前後のケースに対し、「早めの定年退職。リタイアする意味ってあるの?」みたいな若年リタイア者のコメントを読んだことがあります。
確かに一理あるのですが、一方で、50歳リタイア者と若年リタイア者とでは、発想が異なる点があるんだと思います。
目次
《東京都武蔵村山市:鉄道廃線跡を利用した自転車道》
早期リタイア年齢のボリュームゾーンは、多分、アラフィフ
50歳というリタイア年齢、早期リタイア界では遅めかもしれませんが、世間一般では、65や70くらいまで(嫌々ながらも)仕事する気マンマンの人が大多数ですから、それに比べれば早い年齢であります。
ブログや動画など特定の個人によって運営されている場所だと、確かに先鋭的な意見が目立つのですが、多くの人が書き込む掲示板で、早期リタイアや定年延長等が話題になると、「自分は、お金を貯めて5x歳でリタイアした・するつもり」的な書き込みをよく見かけ、その年齢でさえ羨ましがられる、あるいは嫉妬のレスがつくのです。
【過去の当ブログ参考記事】 恐い……女性リタイア者へ「幸せ自慢するな!」と攻撃
「5x歳」ではなく「4x歳」のときもありますが、「3x歳」や「2x歳」は僅少です。
つまり、早期リタイア年齢というのは、50歳を中心にしてプラマイ5歳というあたりが、ボリュームゾーンなんじゃないかと思うんですよね。
どういう人がアラフィフ・リタイアを目指すか
それでは、ボリュームゾーンにあたる、アラフィフでリタイアするのは、どういう方なのでしょうか?
私の想像ですが、例えば、以下のような人々では?
- 巷で言われているように、70過ぎまで働くのは絶対に嫌だが、かといって、一刻でも早く辞めるために、人生のあり方を、ことごとくそちらへ寄せていくつもりはない。
- 40歳くらいまでは普通に仕事をやってきたが、それ以降、中年の危機にぶちあたり、リタイアを考えるようになった。
【過去の当ブログ参考記事】 中年の危機 ~40代の悲哀を考える~
つまり、仕事と自由を、「完全な二項対立」として捉えているのではない。
もちろん、「仕事」の割合を究極まで減らして、「自由」の割合を究極まで増やせるのなら、サイコーです(少なくとも自分は)。それが多くの若年リタイア者だと思うのですが、なかなかそこまで踏み切れない。
また、仕事は確かに大変ではあるけれども、経験だったりお金だったり、そこで得られるものもある。
そうしたことも考慮して、仕事と自由の折り合いをつけていくと、
- ある程度の年齢までは仕事。そこから先は自分の生き方。
みたいな風になってきます。そして「ある程度の年齢」っていつだ?ということになると、「50歳プラマイ5歳」あたりの年齢に、収斂していくのではないかと。
悪く言えば「妥協」、良く言えば「仕事と自由のバランスをとった」。
「もっとうまくやれば、更に早くリタイアできたかもしれんが、まぁそれでも、どうにかアラフィフでリタイアでき、70過ぎまで仕事しなくても済んで、まずまず満足している」というのが、アラフィフ・リタイア者の気持ちの最大公約数的なところではないでしょうか。
【過去の当ブログ参考記事】 50歳でのリタイア、その特徴を書いてみよう
金銭面が見えやすい
アラフィフ・リタイアの利点として、金銭面が見えやすい、ということがあります。何といっても「早めの定年退職」ですから、金銭面で考えることは「真の定年退職」とそう変わらない。
というのも、リタイア目指して倹約していれば、50歳くらいにもなると、いっぱしの貯蓄額になっているだろうし、退職金や年金額も「真の定年退職」に近づいてくる。
お子さんがおられる方は、子育ての目途がついてくる頃。住宅ローンを堅実に返済しておられる方は、完済に向けてもうひとふんばり、という頃。年金受給開始まであと15年くらいと比較的短い。
つまり、金勘定がやりやすい。
世間では「60歳で定年になった後、65歳での年金受給までどうやって暮らせばいいんだ!」と悲鳴が上がっていますが、早期リタイアを考えて準備を進めてきた人であれば、「50歳で退職後、65歳までどうやって暮らすか」のシミュレーションは、そう難易度の高いことではない。
だから、リタイア年齢が50歳前後の方のブログを読むと、死ぬまでの最低限の生活費は既に準備済と思しき方は、全員ではないにしろ、結構多い。
いくら儲かった、いくら損した、いくら金使った、いくら節約した、ということよりも、「リタイア生活そのものの充実」の方が大事になってくる印象ですね。
そして、「リタイア生活そのものの充実」というのは、実は金では買えないんですよね。もし金で買えるものなのであれば、ビジネスで財を成してリタイアした人が、リタイア生活に飽きて、再びビジネスに戻ってくるなんて、あり得ないですからね。
【過去の当ブログ参考記事】 リタイア後に襲ってくる?「取り残され感」「おいてきぼり感」
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アメリカ大統領選挙。トランプ氏は不思議な人だ。
アメリカ大統領選挙の投票が行われています。
アメリカにとってどちらの候補がよいのか私には分かりませんが、世界的に注目されている選挙ですし、色々考えるところはあるので、少し書いてみます。
目次
《東京都奥多摩町日原地区:昨年台風19号による道路被災から仮復旧、5月から小型バスで運行が再開された》
4年前は、まさかの結果に・・・
4年前を思い出すと、トランプ氏は、「共和党公認を獲得するための予備選挙」の候補として名前が挙がって選挙運動を開始した時点で、その過激な言動から、既にキワモノ扱いでした。
「こんなヤツ、公認していいのか」
当の共和党員でさえ苦悩している、という報道が日本においても流れていましたが、何故だかトランプ氏は強く、対立候補同士で結託してトランプ公認を阻止しようと頑張ったようなのですが、結構な大差で共和党公認候補として決定してしまったのです。
本選挙においても、「メキシコとの間に壁を作る。メキシコ側の負担で!」など演説されていて、
「こんなヤツ、大統領にしていいのか」
的な報道が多く、トランプ氏が当選するだろう的な報道は皆無だったように思います(少なくとも日本では)。
そして投開票のその日。朝イチでもなく、夕刻でもない、恐らくお昼頃。
そのとき、私は会社のパソコンで仕事をしていたと思います。
私の席から少し離れた後方から、
「え~、トランプさんが勝ったの?」
と部長の驚きの声。
もちろん全ての開票が終わったのではなく、日本で言う、当選確実という状態が報じられたのだと思います。
多分、そのときはお昼休みではなかったはずなので、部長は、就業時間帯に、選挙結果をネットでチェックしていたと、こういうことになります。
部長の声からも分かる通り、本当にこの結果は大どんでん返しでした。
世論調査ではクリントン氏が有利だった、そのこと以上に、トランプ氏の過激発言が繰り返し報道され、
「こんなヤツ、大統領にしていいのか」
という空気が醸成されてきたはずなのに、それを覆してしまったことの方が、オドロキを大きくしている気がします。
バイデン氏の応援にレディー・ガガさんが歌う。日本では利益供与。
今回も、つい先ほどまで選挙運動が行われていて、レディー・ガガさんがバイデン氏を応援し、あざやかな歌を披露しておられました。
レディー・ガガさんも応援、バイデン陣営最後の訴え 米大統領選 写真26枚 国際ニュース:AFPBB News
米歌手レディー・ガガ(Lady Gaga)さんが2日、米大統領選の最大の激戦州であるペンシルベニアで、民主党候補ジョー・バイデン(Joe Biden)前副大統領(77)のドライブイン方式で行われた集会で演説した他、集会前にはパフォーマンスを披露した
上記記事ではパフォーマンスと書いていますが、実際にはお歌いになっていました。メチャクチャ本格的に。
これを見て私はオヤ?と思いました。
これって、アメリカでは選挙違反にならないんだ、と。
日本では、本職の歌手が、選挙運動で歌を披露すると、利益供与で選挙違反になる、という解釈が一般的です。
国政選挙や知事選などでたまにあるのは、知り合いや友人の歌手に集会などで選挙応援をお願いするケース。選挙応援のスピーチをする分には問題ないのですが、そこで一曲披露となると途端に問題になってしまいます。
本来であればプロの歌手は歌を披露するのが仕事ですので、その分の公演料を徴収しなければなりません。それを無料で披露したとなると、その歌手の方の公演料で集会の参加者を買収したことになってしまうのです。
でも、アメリカの法解釈では選挙違反ではないからこそ、堂々と歌を披露されているんだと思うんですよね。
「歌を披露」ではなくて「パフォーマンスを披露」と表現しているところに、日本のマスコミの苦心が窺えるのです(よく言えば)。
ボロクソ言われながら接戦まで持ちこむトランプ氏の不思議
それにしても、トランプ氏は大統領になってからもお騒がせでした。
移民を迫害してみたり、北朝鮮のトップに「ロケット・マン」と挑発してみたり、イスラエルに異常に肩を持ってみたり、TPPやWHOを敵視してみたり(ちなみに、TPPって、今どうなってんの?)、中国に喧嘩を売ってみたり、コロナでマスクを軽視してみたり、アフリカ系への差別解消に消極的だったり。
その都度なされる報道には、
「こんなヤツ、このまま大統領にしておいていいのか」
感が満載でした。
日本の大手マスコミの報道を見ていると、トランプ氏にはお騒がせな差別主義者のイメージしか持つことはできず、決定的な敗北を喫するとしか思えなかったりするわけですが、当のアメリカではトランプ氏を支持する人がイメージほどには少なくなくて、それまで、バイデン氏有利と見られていた情勢が、接戦になってきている。
もし新型コロナが無かったら、トランプ氏が有利だったかもしれない。
全く不思議なことです。
トランプ氏の保護主義がポイントか?
私が思うに、トランプ氏の政策の本質は保護主義にあるのではないでしょうか。トランプ氏のお騒がせネタは、保護主義に発しているものが多い(日本の報道では「自国第一主義」などと言い換えられてしまっていますが)。
国内外の反発をも顧みず、ここまで過激な保護主義を打ち出して実行している人って、これまでいなかったと思うんですよ。しかも、本来、自由貿易推進の立場であるはずの共和党出身というのが更にオドロキなのです。
この保護主義には賛否両論あると思いますが(いや「否」の方が一方的に多い?)、これによって助かっている(と見なしている)アメリカ人は実は少なからずいるはず。
もちろん、対立候補のバイデン氏は民主党なので、彼が大統領になっても自由貿易マンセーになるとは思えませんが、トランプ氏の過激なやり方に比べれば、よく言えば融和的、悪く言えば妥協的な方向に走ることは想像に難くありません。
トランプ氏はお騒がせではあるけれども、変に妥協的な態度を取られるよりは、今のような強硬路線を歩んでほしい・・・・日本の報道からは聞こえて来ない、そういう考えを持った人達がトランプ氏への支持を、実は押し上げているのかもしれません。
まぁ、私には保護主義が良いのか悪いのかは分かりませんが、敢えて推測するなら・・・ということです。
選挙結果がすぐに決まらない可能性
あと、選挙結果がすぐには決まらない可能性について、指摘されています。
アメリカ大統領選で勝者が決まらなかった場合はどうなるのか?(@DIME)
あまりにも接戦だったり、郵便投票が増えたり、法廷闘争に持ち込まれたり、という展開で、誰が大統領になったのかの最終的な確定が、当分持越しになるかもしれない、という話。
選挙後の展開は、投票結果を見極めざるを得ないが、前述の2000年の大統領選後に株価は大きく下落しており(図表2)、勝者が決まらないリスクには注意が必要だ。
そういえば20年前の選挙でも、随分と揉めていましたよね。私はあまり投資には詳しくありませんが、どう転んでも狼狽せず、じっと我慢の子でいるのがいいのではないでしょうか? まぁこれも個人的な意見。
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