今回は次の記事。20代女性・事務職の方のお悩み。
かわり映えのしない退屈な日常こそ「最高の幸福」であるのはなぜか 哲学者はこう考える(小川仁志)
Q テレワークで毎日代わり映えしない生活に嫌気がさします
A よいことも悪いことも含めて何も起こらない、その平凡こそ幸運なのです
ということで、哲学者たる回答者は、「かわり映えしない退屈な日常」の良さを述べていきます。
私もリタイアして、「かわり映えしない退屈な日常」を続けているので、その良さというのは十二分に理解できるのですが、リタイアを考えていない20代の女性に、その良さを伝えるというのは、哲学者であろうと難しいのではないかな。
目次
《東京都八王子市戸吹地区:収穫近し》
子供の頃、戦争の話を聞かされて
私の親は戦中生まれなので、直接、戦争で苦労したわけでないにしろ、相当に貧しい時代を過ごしています。まして、更にその親は明治生まれで直接戦争を体験しています。
だから、親は私に、戦争によっていかに自分達は貧しい暮らしをしていたか、ひもじい思いをしてきたか、あるいは、今(当時は昭和50年代)は平和で食べるものにも苦労せず、どんなにいい時代であるか、ということを話していました。
戦争していた時と比較すれば、当時(昭和50年代)がずっとずっといい時代なのだ、ということは理解しましたが、ただそれが「最高の幸福」であると認識するのには、当時の私はあまりにも幼かった。
そんなことよりも、ただただ、他の子が持っているオモチャを自分も欲しかった。。。
昭和50年代よりも、令和の方が更にいいのだが・・・・
とかく、昭和の時代はスバラシイ、それに比べて令和の時代は格差が広がっていて不幸だ・・・みたいなことを言われがちですが、私に言わせれば、こんなに恵まれた時代って、そう無いですよ。以下、過去記事より。
私の子供の頃との比較
- 食糧事情
- 100円ショップ
- 娯楽
- 住環境
私の子供の頃に比べれば、世の中は進歩しており、当時は高給取りでなければ出来なかった生活が、現在はかなりの低所得層でも可能になっているということです。
ついでにいえば、マスコミでは、私の子供時代よりも豊かそうにしている人が「生活に困っている人」として紹介されていたりします。
昭和の時代は格差が小さくて、誰もが希望が持てて・・・なんて言う人が多いけど、それウソですから。戸建に住んでいる家がある一方で、次の記事に出てくるような風呂なし1Kボロアパートに家族で住んでいるのも普通でしたから。
だから、低所得者といえど(というか低所得者だからこそ)、昭和50年代よりも令和の今の方が生活レベルは上がっているのですが、こういう話をしたところで、今の若い方には響かないでしょう。頭では理解したとしても、「幸福」という実感は持てないのです(「最高の幸福」とは言わないまでも)。
それは仕方が無い。私の子供時代だって、戦争の話を聞かされて「それと比べて今は幸福だ!」なんて、実感は持てなかったのですから。
「自分には○○がある!」という幸福より、「自分には○○が無い・・」という不幸
昭和50年代の私にしろ、令和時代の若者にしろ、日本史上これほどモノ・サービスに恵まれている時代はかつて無かったであろうにも関わらず、「最高に幸福」どころか、不遇に思ってしまう。
それはそうだ。今の若者は昭和を実体験したわけでないし、私だって、昭和のラスト20年のことしか知らない。だから、多くの恵まれたモノ・サービスなど、生まれたときから無条件に存在しているものであって、そこに幸福感を感じることなんてない。
一方で、「あなたには、これがありません」といちいち教えてくれる情報が、世の中には満載です。以下、過去記事。
- 学校ではよりよい成績を収めて、より上の大学や就職先を勝ち取ることが期待される。
- 会社では、常に前年より上の数字を目標値として設定させられる。
- 一流スポーツ選手が「もっと速く、もっと強く」と言いながら、ストイックに練習している映像が流れる。
- CMやマウントなどにより、ある特定の商品を持っていない、サービスを受けていないと惨めだと思わされる。
だから「自分には○○がある!」という幸福より、「自分には○○が無い・・」という不幸を感じやすいのです。
ついでに言えば、マスコミや政治の世界では、平均より下の生活レベルの人に対して「あなたは、既にこれだけ持っているんだから、もう充分だろう」というのは、(多分)ご法度。
マスコミ「○○も持てないような人がいる!政府は何とかしろ!」
政府「善処します」
でも、ほとんどの場合、本当に○○を与えてくれるわけじゃないから、結局、人々に「○○が無いことは不幸なのだ」という不足感を植え付け、怨嗟を募らせるだけの結果に終わる。
「もう充分だろう」という言葉が言えないために、かえって(「不幸」というより)「不幸感」を募らせているという側面はあるのではないでしょうか。そして、その傾向は、私が子供の頃より今の方がずっと強いと感じます。
冒頭の「代わり映えしない生活に嫌気がさしている女性」について言えば、経済的に潤っているとまでは言えないまでも、事務職について普通に生活出来ていることによって、「自分が既に持っているもの」は非常に多いはずなのです。
なのに、「外に出て何かをする機会」が一時的に失われている、ただそのことをもって不幸に感じてしまうわけです。
「持っていないもの」よりも「持っているもの」に着目
すると、自分が幸福と感じるようにするためには、「持っていない」ことを嘆くよりも、「既に持っているもの」に着目すべきということになります。
冒頭の記事では、
アメリカの哲学者エリック・ホッファーは、よいことも悪いことも含めて、まったく何も起こらないのは非常に運がいいと言っています。(略)
「1日2回のおいしい食事、タバコ、私の関心をひく本、少々の著述を毎日。これが、私にとっては生活のすべてである」。彼はそう言っています。
などと書かれていますが、現代日本では、これより遥かに多くのものを人々は持っているでしょう。その大半は、時代が時代なら、影も形もなかったか、あったとしても相当に品質の悪いものだったはずです。
あるいは先の下北沢のボロアパートに住んでいた女性は、
佐々木さん「だから今は、自分の好きな街に帰れる家があること自体がうれしいんですよね」
とおっしゃっています(もっとも他サイトによればその後引っ越したようですが)。
このような考え方が出来るのならば、 「かわり映えしない日常」で暮らしていけることが、いかに幸福なことか、実感することが出来るかもしれません。ただ、現代社会ではなかなかそのように捉えることは難しいのでしょうね。
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