リタイア後の高揚感の後にやってくるのは、「平凡な日々」であって、これを楽しめる資質を持った人は一握りではないか、という話を前回アップしました。
一方で、この「平凡な日々」の時間を埋めるために、リタイア生活にある種の「縛り」を導入する、という考え方もあります。
考え方は分かるのですが、自分は、そのような「縛り」を入れよう、とは全く思わないかな。
目次
《山梨県北都留郡丹波山村:丹波バス停(始発)》
「平凡な日々」を埋めようとするなら、こんなところかもしれない
前書きに書いたようなことは、あるyoutubeの動画で、提案されていました(リンクは貼りません)。以下、その概要。
リタイア前に考えていた、「リタイアしたらやってみたい、こんなことやあんなこと」なんて、実際リタイアしてみると別に大したことなくて、自由な日々の感動が薄れて、当たり前になってくる。
幸福は、多少の不幸があってこそ感じられる感情なので、リタイア生活においても「縛り」を作って、その不幸を擬似的に作りだすことが、幸福を感じるのに必要なのだ、と。
例えば、縛りとして「毎日、筋トレをしなくてはいけない」と決めたとします。そして、毎日、筋トレというツライ作業が終わると、縛りから解放されて、「あ~、自由っていいな」と、リタイア直後に似た高揚感を、(多少は)再現できる、みたいな感じでしょうか。
分かります、考え方は。「平凡な日々」をダラダラ過ごすことに疑問を感じてしまうのであれば、その対策としては、こんなところなのかも知れないです。
そんな面倒臭いことしたくない
この動画をアップされた人は、セミリタイアかフリーランスの立場にあるお若い方。リタイアによって生じた時間を充実させて、幸福に過ごさなくてはいけない!みたいな発想があるんでしょう。真面目だなー、と思います。
一方で、私自身は、50を過ぎてもう枯れているのか、「別に、リタイア生活が充実してなくてもいいから、そんな面倒臭いこと、なるべくしたくない」という気持ちの方が勝っています。
私が最近力を入れているのは数学ですが、書物に書いてある難しい証明を地道に追っていく作業ですので、もしかしたら、いわゆる「縛り」に相当しているのかも知れません。
でも、私が数学をしているのは、ナチュラルに自分が面白いと思うことを、そのままやっているだけで、ノルマとか縛りという認識ではないんですよね。
結局、外出の予定が無い日は、毎日、行き当たりばったりで行動して、それだけで充分時間が埋まる。興味関心が別のところに移ったら、別のことをやり出すかもしれません。
まぁ、自由な日々を、ただダラダラと過ごしているだけですよ。でも、「自由過ぎて、幸福を感じられない」とか感じたことがありません。
実は、数学を改めて本格的にやり直すため、大学に再入学することも検討していますが、別にそれは「縛り」を設けて、相対的に幸福感を上げるためではなく、単純に自分の興味関心を追求した結果。
ただ、一方で、むしろそれ(通学)が結果的に「縛り」になってしまって、別のやりたいことがやりにくくなる、ことを警戒していたりもします。
有力な選択肢となり得るが幸福になるとは限らない
グダグダと書いてしまいましたが、多少の「縛り」を人工的に設けることで、幸福感がアップするというのであれば、そのことを否定するつもりはありません。
ただ、「縛り」を設けることで、本当に幸福になるとは限らない、ということも述べておきます。
というのも、現在の私のリタイア生活において、当ブログの記事執筆こそが「最も大きな縛り」として君臨しているわけですが、このブログ執筆によって、自分はどれ程幸福になったのか、というと、結構アヤシイものがあります。
当ブログの執筆は半年ほどサボった後、7月に再開しました。そしてサボっていたときと再開後の幸福感を比べてみますと、ただ面倒臭い要素が増えただけで、幸福感がアップしたという感じは全くしないのです。
そんなに「縛りから解放された幸福」を感じたいのであれば、おとなしく賃金労働しとくのが一番じゃないでしょうか、実際のところ。
★初めてお越しの方へ。以下にて私のセミリタイアの概要をまとめてあります。
⇒50歳でセミリタイア達成!その概要を書きます