今回は久しぶりに漢文から。『菜根譚』という、明朝末、日本で言うと江戸幕府がちょうど開かれた頃の書物。この書物には含蓄のある言葉が多数収録されているのですが、今回は「名誉も地位も無い楽しみ」と「飢えず寒からずの憂い」について書かれた章から。
目次
《東京都青梅市:JR青梅駅裏「永山公園」》
名誉も地位も無い楽しみ
これから引用しようとする段は二つの部分に分かれていて、まずは前半。
人知「名位」為樂、不知「無名無位之樂」為最眞。
人々は、「名誉や地位」(名位)が楽しみであることを知っているが、「名誉も地位も無い楽しみ」(無名無位之樂)が、最も真実(※)の楽しみであることは知らない。
※「最も真実」とは日本語として不自然ですが、他に適切な言葉が思い浮かばないので直訳としました。
富裕層は「名誉や地位」を得て、それが楽しいことだと、人々は思っている。でも、実は、名誉も地位も関係無いところところに「真実の楽しみ」が潜んでいる。逆にいえば、「名誉や地位」をひたすら追い求めたところで、「真実の楽しみ」など得られない。
そういう文章です。
現代日本にも「名誉や地位」を追い求める人々は多数いて、そういう人々からは、猛烈に反発を喰らいそうな文章です。
個人的には、「名誉や地位」そのものがダメだというより、「名誉や地位」を得ることにかまけてしまうと、往々にして「真実の楽しみ」を脇に追いやることになることを警告しているのだと解釈しています。
自らの楽しみとは何なのか、見つめ直すには、一旦、「名誉や地位」を忘れてみよう、ということなのでしょう。
「真実の楽しみとは何か」という問題もありますが、それは人それぞれなので置いておくとします。
飢えず寒からずの憂い
次に後半。
人知「饑寒」為憂,不知「不饑不寒之憂」為更甚。
人々は、「飢えや寒さ」(饑寒)が憂いであることを知っているが、「飢えず寒からずの憂い」(不饑不寒之憂)というものが、一層、甚(はなは)だしい憂いである、ということを知らない。
飢えたり凍えたり、というのは非常に辛い体験。 でも、『菜根譚』の著者によれば、それよりも甚だしい憂いがあるという。それが「飢えず寒からずの憂い」。
これも、「飢えない、寒くない」ということ自体が、直接、憂いをもたらすものではないでしょう。
おそらく、当時の中国は「飢えない、寒くない」というのは、特権階級の象徴だった。その特権階級であることに満足できず、あれも欲しいこれも欲しいと、欲望をつのらせていく。あるいは、自分より地位が下の人(「飢えや寒さ」の憂いを抱えている人)を見下したりする。
「飢える・凍える」といった生理的な憂いも深刻ではあるが、それらを克服しても、なお残る精神的な憂いは、更に深刻ということでしょう。
【過去の当ブログ参考記事】 足るを知らざる者は「餓鬼」である
現代日本も『菜根譚』の時代と変わらない
『菜根譚』は数百年前の中国に書かれた書物ですが、現代日本にあてはめてみるとどうでしょうか。案外、変わらないよね。
現代日本は、数百年前の中国と違い、名誉や地位が無いところで、飢え・凍えに直結しません。それどころか、便利な機械が発達し、昔は豪華とされていた食事も安く手に入る。敢えて、名誉や地位を得なくとも、それ相応の生活は出来る。
つまり、「名誉も地位も無い楽しみ」を得るということのハードルが大変に下がっている。にも関わらず、少なくない人々が「名誉や地位」を追い求めるのに必死であり、結果、「最も真実の楽しみ」どころか、「一層、甚だしい憂い」を抱えている状況。
例えば、世帯年収1000万あっても不満タラタラだったりするわけです。
【過去の当ブログ参考記事】 世帯年収1000万円でも不満な人々が集う掲示板
結局、東京都心などの豪華タワーマンションに住み、一流企業に勤め、一流の仕事をし、子供にも一流の教育を受けさせる。それらを全部実現するには、世帯年収1000万では到底足りない。低年収の奴らが、俺達の稼ぎを奪っているから、俺達は生活が苦しい。
これは人間の「性」なのでしょうか。上を見ればキリが無いとは言いますが、それでもやはり上を見てしまう人が少なくないし、世間もそれを推奨するわけです。こうして、「一層、甚だしい憂い」を抱えたまま、「最も真実の楽しみ」について考えることさえ出来ないでいるわけです。
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