50歳で早期退職し、セミリタイア!

私セイルは50歳で早期退職、セミリタイアしました!その思いを綴ります。

セミリタイア者の自主性、サラリーマンの「自主性」

 学校や職場でよく聞かれる言葉に「自主性」あるいは「自主的」なるものがあります。

 「自主性」を日本国語大辞典という巨大辞書で調べると、次のように載っています。

他に頼らず、自分の方で考えたり行ったりすることのできる性質。

 無色透明な語義解釈ですが、セミリタイアして、学校や職場などの組織に属していない今から捉えなおすと、かなり手垢のついた言葉だよなぁ、と感じます。

 

目次

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 《東京都奥多摩町:多摩川(左)、日原川(右)合流点》

「自主性」という言葉の歴史

 日本国語大辞典によると、「自主性」という言葉のもとになった、「自主」という言葉自体、それほど古いものではなく、最初期の出典は、維新前後に書かれた福澤諭吉の書です。恐らく、西洋の概念が輸入されたものでしょう。

 これに「性」がついた「自主性」だと、更に新しく、最初期の出典は、戦後間もない1950年に出版された次の本だそうです(Amazonリンクは2018年発売となっていますが、もちろん後世の文庫化です)。

改訂新版 ものの見方について (角川ソフィア文庫)
 

改訂新版 ものの見方について (角川ソフィア文庫)

日本・自主喪失

第三には、よく云われるように我々には自主性が欠けている。

 これは日本国語大辞典からの孫引きで、この前後の文章までは載っていませんが、おそらく、日本という国、あるいは日本人はもっと自分というものを持って行動せにゃならん、という文脈なんだと思います(多分、敗戦後によくあった日本反省論の一つ)。

 

 時代は下って、1980年頃、すなわち私の小学3~4年の頃には、この言葉はかなり浸透していたようで、あるとき先生が「自主性というものをもっと持つように云々」みたいなことを言いだしました。

 「ジシュセイ?なにそれ?」という感じでしたが、要するに、例えば、親や先生が口うるさく言わなくても、宿題を片付けるとか、掃除をちゃんとするとか、そういう類です。「自分の好きな漫画を率先して読む」的なことは、自主性の対象外であることに注意して下さい。

 

 そして現在、自主性とはどういう文脈で使われるのか。ネットで検索すると、例えば、次のようなサイトが最初にヒットします。

「自主性」と「主体性」【社員教育相談室】

自主性というのは、あることに対して率先して行動することです。例えば、「掃除をする」という決められたテーマに対して、自ら率先してやることです。「イヤイヤ」やるのではなく、「ハイ、よろこんで!」と笑顔で答え、誰よりも早く行動に移し、一生懸命にやることと言えます。物事に対する「やる気」の現れのようなものであり、新入社員に求められる行動力です。

 他のサイトでも大同小異。

 ここで、日本国語大辞典の無職透明な語義解釈を再掲しましょう。

他に頼らず、自分の方で考えたり行ったるすることのできる性質。

 どうですか? 両者を比較してみると、先に私が述べた「かなり手垢のついた言葉」ということが、よく分かるでしょう。

「組織の中の自主性」

 「自主性」という言葉、本来はもっと無職透明な意味であったはずですが、最近の用例を見ていると、相当に偏った使われ方をしているようです。

 子供で言えば、宿題や掃除、大人で言えば会社内で仕事を率先して行う、そういう態度のこと。

 言うなれば、学校や職場といった、組織の中で指示を待たずに、自分のやるべきことを自ら判断して実行するということです。

 私が思うに、こういった「組織の中の自主性」については、日本人は優れている。勿論、全員が全員というわけではありませんが、諸外国に比べれば、日本人はこの意味での自主性が平均的に優れているから、色々と品質の高い商品やサービスが作れるのだと思う。

 ただ問題は、これって文字通りに自主性、つまり「自分が主」って言ってよいものか?ということ。

 「主」なのは組織であって、自分は「従」だよね。まず組織というものがあって、自分を組織に最適化させている、ということだよね。組織の望まないことを自分で考え出して実行しても、それは「自主性」とは言わんよね。

 「忖度」という言葉が最近一気に広がりましたが、あれも「主」なのは「忖度先」です。自ら判断して行っている行為であるにも関わらず、自分は「従」に過ぎないのです。

「自分が主の自主性」

 それでは、「組織の中の自主性」ではなく、「自分が主の自主性」はどうなのかというと、かなり心許ないと思います。

 以前、当ブログでは、次の記事をアップしました。

  【過去の参考記事】 80歳まで働ける?いいと思います。私はノーサンキューだけど。

 ノジマの80歳まで働ける、というあれです。「80歳まで働くなんて嫌だ!」

 あるいは、竹中氏が最近提唱したベーシックインカム7万円。「月7万円じゃ暮らせない!」

 老後2000万円問題。「2000万円なんて準備できない!」

 

 何かにつけて、この手の悲鳴があがり、ネット上では批判コメントが多くあがります。でも、私は、このような批判コメントを読むたびに、批判者の自主性の無さ、というものを感じるのです。

 何故かというと、80歳にしろ、7万円にしろ、2000万円にしろ、マスコミに登場した数字を自分流に咀嚼(そしゃく)するということをしている形跡が見当たらないからですね。

 自らの人生設計までお上任せになってしまっているから、出て来た数字に対して、ただただ、怒りをぶつけるしかないのではないか。一見、政府を批判しているようで、実は、一番、政府に隷属している人達ではないか。

 このようになってしまったのは、自主性というものが「組織の中の自主性」に偏重しており、自分のこと、特に、自分の人生のことについて、自主性を発揮することを忘れてしまったからなのかもしれません。

セミリタイア検討者は、それだけで「自分が主の自主性」がある

 そう考えると、セミリタイアを検討されている方は、それだけで「自分が主の自主性」がある方だな、と思うのです。

 というのも、「仕事を何歳まで続けるか」ということは、「自分が主の自主性」を高度に発揮しないと考えることが出来ないからです。

 あるいは、セミリタイア生活それ自体も、「自分が主の自主性」を発揮しないとやってられないよな、と思います。自分がやること・やりたいことは、誰かが与えてくれる、というものではないのですから。

 

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