他人ではなく自分のために"一生懸命"生きている
『あやうく一生懸命生きるところだった』なる韓国書籍の邦訳版が出たそうで。その紹介記事が興味深いです。
「あやうく一生懸命生きるところだった」 会社辞めて知る自由の楽しみ
会社員を辞めイラストレーターとの二足のわらじ状態から脱した韓国人の著者が、「一生懸命生きない」決断をした顛末などを、ゆるゆる語る。40年の半生でため込んだモヤモヤとそれを解き放ちたかった気持ちには、誰もが共感するはず。
日本で言うセミリタイアですね。韓国も競争社会と聞いていますので、そういう考えを抱く人・共感する人が恐らく一定数いるんでしょうね。著書は読んでいないのですが、この紹介記事をネタに何か書いてみます。
目次
《東京都檜原村[神戸岩]》
自分のために一生懸命の私
この本を否定するつもりでは決してないのですが、私自身は一生懸命に生きています。ただそれは社会のため、会社のため、他人のためではなく、自分のため、家族のためというのが、世間一般と違うところかもしれません。
- 家事をこなす。
- 家族で楽しく生きていけるため、色々な仕組み作りの努力も怠らない。
- このブログを書くのもそう楽なものではない
- 奥多摩や山梨にサイクリング行くのも、ものすごく体力を使う(電動はついているけど)。
- 昨日は、Wii(古い!)のゲームで高得点を出そうと一生懸命に頑張った。
- (コロナで中断しているが)趣味の合唱が出来るところを頑張って探している。
- 難解な書籍を読んでいるが(最近は漢文)、相当に頭を使う。
「遊びや趣味っぽいことが多いけど、それで一生懸命と言えるの?」
こんなツッコミが入りそう。
う~ん、遊びや趣味に対して「一生懸命」という言葉を適用してはいかん、なんて日本語の文法・語法には無いはずなのですが。
でも、自分の楽しみのために努力・精力を費やしても、それを「一生懸命」とは表現しない、少なくとも、社会や他人のためにそれを行うことよりは例外的なものと捉えられている節はありそうです。
現に、先述の著書の邦題『あやうく一生懸命生きるところだった』に現れる「一生懸命」という言葉は、明らかに、会社や他人のために「一生懸命」になることですからね。韓国語の原題でどう表現しているのかは分かりませんが。
「自分はどうしたいのか」を考えるのが大事
著書の紹介記事には、要点が5項目にまとめられています。
- 要点1 結婚、持ち家、車…。本当に必要なのか?
- 要点2 執着は悲劇の始まり 人生にも「損切り」を
- 要点3 自分の選択なら失敗体験も有意義
- 要点4 お金を優先したら一生自由になれない
- 要点5 人生は答えよりリアクションが大事
ただ、要点は5つといっても、紹介記事を読む限り、本質的には「自由」あるいは「自らの選択」といった、より少数のキーワードで括れそうな感じです。
リタイア者にとって、そこまで目新しいことが書いてある訳ではなさそうですが、個人的に興味深いと思ったのは要点3ですかね。
要点3 自分の選択なら失敗体験も有意義
(略)我々はたかだか飲食店や映画を選ぶときですら、いちいちネットで評判を確認する。(略)失敗しないと検証された中間以上のものを選んでいるうちに、感性は退化し、いつしか自分の選択が信じられなくなっていく。結果的にそれが最高でなくても、自分で選んだものは記憶に残るし気分をほっこりさせてくれる。自分だけの人生は、いくつもの失敗の上に成り立つのではないか?
これは大事な指摘でしょう。
勿論、人の体験を参考にして適宜取り入れるのはいいことです。
ただ、「結局、自分はどうしたいのだ?」ということも併せて考え、自らの感性を磨いていく訓練も必要なのではないでしょうか。「他人様にとって最高なモノ」を無条件に選択していてばかりでは、いつか、他人の人生を生きさせられている状態に陥りかねないからです。
もちろん、失敗が許されないケースというのも存在しますから、何もかも自分のしたいように出来るとは限りません。自分はこうしたかったが、リスクを恐れて、その行動をとらなかった、ということもあるでしょう。著書の意図とは違ってしまうかもしれませんが、私はそれでもいいと思うんですね。
ただ、無条件に、「他人様の選択」や「社会一般の規範」を至上のものとして祭り上げてしまうのもどうかな、と思うわけでして。
私のセミリタイアの経験に当てはめてみる
前項で述べたことを、私のセミリタイアに当てはめてみます。
もともと、会社で働くのは嫌いで、趣味三昧の生活を送りたい、というのが、偽らざる自分の思いでした。ただ、どうしても先立つ物が必要になりますので、大きなリスクをとってまでリタイアするつもりはありませんでした。
そのため、決まった給料をもらえ、世間的にも聞こえがいい会社員生活は当面続けたのです。それは流されてそうしていたわけではなく、「いつかリタイアする」という自分の思いは忘れませんでした。
結果的にセミリタイアが出来たのは、その思いがあったからこそだと思います。「他人様の選択」や「社会一般の規範」を至上のものとして捉えている限り、セミリタイアなんて不可能であるどころか、発想さえ出てきませんから。
おわりに
『あやうく一生懸命生きるところだった』の著書から発展して、いつの間にか自分語りになってしまいました。セミリタイアに親和性がありそうな本だと思いますので、興味のある方はご一読してもいいのではないでしょうか(私は読んでいませんが)。
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