立憲の枝野代表が辞任されました。野党第一党をここまで引っ張ってこられた功績は大きいと思います。お疲れ様でした。
さて、今回から野党共闘の話です。
ただ、私個人が「立憲と共産が手を組むことに対して賛成だ・反対だ」ということを述べたいわけでなく、あくまで「共産と組むことは、立憲にとって戦略的に得なのか損なのか?」という、立憲民主党にとっての損得論を考察するものである、ということは、あらかじめお断りしておきます。
目次
《山梨県富士吉田市:富士急行線の中から見える富士山。これも銭湯みたい。。。》
旧・民主党系と共産の協力は、かなり前から行われている
当ブログでは、いきなり野党共闘の是非を言うのではなく、まずは、その歴史を振り返ることから始めたいと思います。
というのも、今回の敗北には、野党共闘および共闘を巡る路線対立の歴史が大きく影響しているからだと私は考えているからです。今回の結果や、票計算・世論調査の数字よりも、まず過去を振り返ることが必要なのです。
ということで、まず、野党共闘っていつ頃から始まったものなのでしょう?
これまで、野党共闘がここまでクローズアップされたことは無かったので、つい最近始まったばかりのように思われる方もおられるかもしれません。しかし実際はそうではなく、小・中規模の協力はかなり前から行われていました。
私の印象だと、ここ何年間か、旧・民主党系の政党と共産党が何かしら選挙協力をするたびに、「今回は野党候補を一本化し、一対一の構図となりました」とか、「今回の選挙において、一本化の効果はあったと認識している、と野党幹部は語った」みたいな新聞記事が出ていました。
ただ、その協力した選挙というのが、地方選挙だったり、補選だったり、参議院の一人区だったりと、そこまで大規模なものではなかったので、そこまで大きな扱いではありませんでした。
野党共闘の発端
改めて、wikipediaで関連項目を見てみましょう。この「野党共闘」が行われるようになった発端は、旧・民主党時代にあることが分かります。意外と前からやっているものですね。
2015年夏、国会は平和安全法制審議一色に染まり、(略)法制の成立後、共産党委員長の志位和夫は反対派の各党(民主党・維新の党・社会民主党・生活の党と山本太郎となかまたち)に対し、同法制廃止の一点のみに絞って5党が協力して政権を樹立させる国民連合政府構想を提案した。しかしこの提案は、野党間での政策の違いなどを理由に民主党内部で反対され、実現しそうになかった。
(翌)2月19 日、民主・共産・維新・社民・生活の5野党党首会談の席で、志位は国民連合政府構想を事実上棚上げし、一人区の候補者調整で「思い切った対応」をしたいと述べた
注目すべきなのは、次の2点。後で出てくるので覚えておいて下さい。
そして結局、この共闘体制は実現し、民主党⇒民進党⇒立憲民主党(一部、国民民主党とも)と引き継がれ、次の選挙で協力が行われました。
- 2016年 4月補選、参院選、東京都知事選、新潟県知事選、10月補選
- 2017年 東京都議選、仙台市長選、横浜市長選、茨城県知事選、第48回衆院選
- 2018年 新潟県知事選、参院選
- 2019年 補選、第19回統一地方選挙
- 2020年 東京都知事選挙、都議選、第49回衆院選
結構ありますね。このなかには、先の東京都議選のように、「共闘の効果があった」と明確に言えるようなものも含まれています。
ただ、衆議院の政権選択選挙で、相当に大がかりな選挙協力を共産党と行い、政権をとった後の協定まで結んだのは今回が初めてで、これまでの野党共闘の集大成とも言える選挙でした。
しかし、立憲民主党は、この集大成の選挙で惨敗してしまったので、今後の進むべき道を見失ってしまっている、というのが現状なわけです。
共産党との距離感を巡っての党内対立
この間、共産党との共闘に賛成していた人々だけでなく、「距離を置くべきだ」という意見を持つ人も党内に沢山いました。そのため、共闘賛成派と反対派で常に党内対立があり、このことが、党を疲弊させただけでなく、離合集散にまで繋がっていった、という側面は否定できないのではないでしょうか。
共闘開始時
共闘開始の当時から、旧・民主党内で路線対立があったことは、既に述べた通りです。
2016年民進党代表選
代表の岡田や幹事長の枝野幸男、他の野党幹部は後継の執行部でも野党共闘を継続することを希望したが、一方で保守系の民進党議員(平田健二、細野豪志、馬淵澄夫、長島昭久など)は代表選を通じての路線修正を訴えた。
このとき代表選に立候補したのは、3名(蓮舫、前原、玉木)なのですが、皆、共闘に明確に賛成とも反対とも言わずに、玉虫色の考え方を示しておられました。
非常にセンシティブなテーマであり、どちらか一方に肩を持つような発言をしてしまうと、党をまとめることができない、という事情があったのでしょう。
このとき代表になったのは蓮舫氏でした。
2017年9月民進党代表選
蓮舫体制は長く続かず、再び、代表選挙。
前原誠司は「理念、政策が合わないところと協力するのはおかしい。(共闘の)是非について見直したい」と言及し、(略)枠組みありきの共闘は否定したほか(略)
枝野幸男は「主体性を持ちながらできることを最大限やる」として共闘継続を基本としつつ、(略)次期衆院選について政権選択の選挙ゆえに共闘は「困難が大きい」としつつ(略)
と、方向性に違いがあります。前原氏の勝利。ただ枝野氏も善戦。代表選後、民進党を見限って、とうとう、一部保守系議員が離党。
小池・希望の党と衆議院選挙(2017年)
前原氏が代表になってまもなく、一大転機が。
近く行われる衆議院選挙を睨んで、小池都知事が希望の党を旗揚げ、前原代表と会談、出来たばかりの希望の党と民進党を合流させる、という、ある意味、とんでもない構想が、突然に持ちあがったのです。
このとき、小池氏の「排除」発言は有名ですが、排除したかったのは一体何だったのでしょうか。
【衆院解散】民進党左派に「踏み絵」 ハードル高い希望の党の選考基準、合流拒否も… しかし細野・若狭氏も「すねに傷」(1/2ページ) - 産経ニュース
希望の党に衆院選での公認を申請する民進党の立候補予定者に対し、安全保障関連法や憲法改正への賛同を条件として突きつけ始めたのだ。
(略)公認の可否は安保法制存続と憲法改正に賛成するかを基準に決める。
思い出して下さい。安保法制云々というのは、2015年の共闘の発端となったテーマです。つまり、小池氏が出したこの基準って、口には出さないまでも、実は、共産党と組むことを是とするのか非とするのか、暗に問うているのです。
一方、前原代表のほうも、希望の党経由で保守系の勢力を大量に入れることで、共産党色を極力薄めたい、という狙いがあったことでしょう。
しかし、このような強引なやり方に反発した人々(主に小池氏から排除された人々)も多く、彼らが枝野氏に結集し、立憲民主党が結党されました。
ここで民進党の分裂は決定的に。
このような経緯から、共産党との共闘の枠組みは、立憲民主党が受け継ぐようになったのは当然のことです。そして衆議院選挙では、希望の党は思ったほど議席が取れず、立憲民主党が野党第一党となり、以降の野党間のイニシアチブを取ることになっていきました。
つまり、野党共闘についての路線対立が、単に路線対立にとどまらず、とうとう党分裂にまで発展していくことになっていったのです。
長くなりましたので、続きは次回。
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