泉政調会長が代表選に(正式に)出馬するもよう。御健闘をお祈りいたします。
さて、野党共闘の話の続き。
今回の野党敗北には、野党共闘および共闘を巡る路線対立の歴史が大きく影響しているので、その歴史を振り返っている最中でした。
↓ 前回
目次
共産党との距離感を巡っての党内対立(続き)
野党共闘というのは、2015年の安保法制成立に起源を持ち、共産党の言いだしっぺで始まったもの。しかし、この共闘は民進党の代表選のたびに問題になり、小池都知事が希望の党を設立した際に、党の分裂にまで至ってしまった、というのが前回のストーリーです。
2020年、野党再編
今から思うと、2018~2020年前半頃の、立憲民主党と国民民主党の体制は比較的安定していたと思います。共産党との関係でいえば、立憲側は共産寄りが多数、国民側は非共産が多数、という形なので、表立った対立はそれほど無かったのではないでしょうか。
とはいえ、水面下では立憲と国民の合流交渉は行われており、2020年にそれが実現します。
しかし、この合流にあたって、やっぱり主要テーマとなってしまうのが、共産党との関係なんですよね。
「お前ら、いつまでそれやってんじゃー!」という感じですよね。
まぁ、彼らは「共産党がー!」と大々的には言わないですよ。「合流にあたって、政策の一致点を見いだせるかどうか」みたいなマイルドな表現にしています。
でも、合流交渉の段階で、共産党の志位委員長は次のようなご発言をされています。
立民と国民の合流問題/共産党と協力してこそ政権の道も開ける/志位氏
「立憲民主党の枝野幸男代表の発言で、『これ(合流)で、政権交代を目指す』と言っています。そうすると新しい“かたまり”と日本共産党がどういう関係になるのかが問われてきます。私たちと協力をしてこそ政権交代の道も開けるし、野党政権の道も開けるという立場で話し合っていきたい」
つまり、この合流交渉において、根っこでは、共産党との距離、というテーマが相当深く関係しているのは間違いないのです。
そして、国民民主党側では結論が出ずに、事実上分党。議員や組織の大半が立憲に合流。国民民主に残ったのは少数。
一方、受け入れる方の立憲民主党側は、もとは共闘賛成で大方まとまっていたように見えるのですが、新たに「内心、共闘に乗り気でない、旧・国民民主党の議員」を何十人か受け入れることになるので、そこで内輪揉めのネタを抱え込むことになるのです。
でも、旧国民の人々は、「枝野さんの党に間借りさせてもらっている」ような感じですし、代表選でも旧国民の候補を破って、枝野氏が選ばれているので、あまり表だって異を唱えるようなことはしませんでした。
2021 衆議院選挙
じゃぁ、枝野氏がそこまで「野党共闘バンザイ!」みたいな考えを持っていたかというと、それもアヤシイのですよね。
枝野氏としては、「共産と立憲がつぶし合うのは得策ではないから、可能な限りで協力する」程度のものであり、支持団体との関係もあるので、あまり共産党にズカズカと踏み込んで欲しくない、というのが本音だったのではないかと。
今回の衆議院選挙前、共産党との調整が停滞気味だったのは、この枝野氏の姿勢にあったんじゃないかと思っています。
むしろ野党共闘に積極的だったのが、生活の党⇒自由党⇒国民民主党⇒立憲民主党と移ってきた小沢一郎氏。
「壊し屋」小沢氏に、野党一本化の交渉役依頼…立民には警戒する議員も
ただ、立民の枝野代表は野党共闘を強く主張する小沢氏を遠ざけており・・(略)
小沢氏が多くの政党の離合集散に関わり、「壊し屋」の異名を持つだけに、立民内には小沢氏を警戒する議員も少なくない。
平野氏が今回、小沢氏を頼ったのは、野党間の候補者調整が足踏みしているためだ。・・(略)
小沢氏は旧国民とはいえ、党勢が拡大するなら何でもアリ、という人。最終的に200以上の選挙区で、共産との協力体制が達成されたのは、やはり小沢氏の力なんでしょうか。
今から考えれば、国民民主党はあのとき、小沢氏や森裕子氏を含む旧自由党勢力を一掃することが出来たのは幸いだったんじゃないかという気がします。
それはともかく、立憲は、共産党との大々的な選挙区調整および政策協定を結んで、衆議院選挙に臨みました。過去、ここまで大々的な選挙協力は無かったと思いますし、政策協定というのも、政権選択の衆議院選挙では初。
このように鳴り物入りで開始された衆議院選挙なのですが、枝野代表は何とか共産色を薄めようと必死です。
枝野氏の演説終了後、志位氏ら参加者との記念撮影が予定されていたが、枝野氏は応じることなく会場を去った。先に演説した志位氏は約30分間、待機していた。
一方で、共産側はノリノリ。
野党共闘で新しい政権を/日本記者クラブ党首討論/志位委員長が発言
「今度の選挙は、自公政権を続けるのか、野党共闘で新しい政権をつくるのか、政権選択の選挙です。今こそ政権交代を実現し、国民の声が生きる新しい政権をつくりましょう」
連合は反発。
更には、自民党の麻生氏から「立憲共産党w」と揶揄。図星を突かれて立憲猛反発。
新潟入りの麻生氏「立憲共産党と戦っている」「日米安保を堅持と言うのか」
「今、戦っている相手は立憲なんとか党。最近、よく政党の名前が変わるのでいちいち覚えていられないんだけど」と麻生節。「立憲党は共産党と組んでるんだろ。だから立憲共産党とわれわれは戦っている」と指摘。「立憲共産党」の批判に立民が反論
「われわれは『立憲民主党』で『立憲共産党』ではない。党の名前くらい覚えてもらうとありがたい」
このように、共産党を巡って立憲民主党は迷走し、候補者一本化により比例と併せて140議席ぐらいとれると皮算用していたのに、結果は100議席を下回ってしまう敗北。
今回、ここまで共産党が前面に出てきて、そして敗北してしまった以上、これまで抑えてきた野党共闘についての議論を再開せざるを得なくなってしまった、でも、共産党はいまだノリノリであり、そう簡単に決別することも出来ない。大変なジレンマに直面してしまったのでした。
野党共闘の歴史的位置づけ
このように過去5~6年を振り返ってみますと、旧・民主党系の政党は、共産党に振り回されっ放しだったことが明確に分かるのです。
野党共闘の発端となったのは安保法制ですが、実は、この日米関係・安全保障の議論が発端になって、旧社会党は3度も分裂しています。
- 1951年(昭和26年) 社会党は左右2つに分裂。1955年に再統一。
- 1960年(昭和35年) 社会党からの脱党者が民主社会党(後の民社党)を結成。
- 1994年(平成6年) 自社さ連立政権で社会党の村山氏が総理となり、安保や自衛隊等を肯定したことで、社会党は求心力を失う。これをキッカケに、所属議員は、社会民主党、民主党、新社会党に分裂。
こう考えると、今回の野党共闘も、このような安全保障をめぐる野党内の対立、そして離合集散の歴史の一環として捉えることが出来るのです。
それでも21世紀初頭は、左派勢力の多数は、一部の保守系とともに、旧・民主党を形成していたため、そのような対立が表面化することはありませんでした。でも、それは「政権交代」という要(かなめ)により抑制されていたもの。
その要(かなめ)が緩んだのが、政権交代直後の鳩山政権のとき。「最低でも県外」という基地移転の件で迷走し、支持率が下がったことが、最終的に2012年(平成24年)の下野につながります。
そして下野により要(かなめ)は完全に外れ、この状態で、2015年(平成27年)、安倍内閣で安保法制が提出されたことをキッカケに旧・社会党へと先祖がえり。そこを共産党に付け込まれる形となった(意図していたかは別にして)。
この結果、今回掲げられた「政権交代」とは、前回と異なって、かなり共産化されてしまったものなのです。
また長くなってしまった。次回こそ、「野党共闘の是非」について触れていきたいと思います。
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