50歳で早期退職し、セミリタイア!

私セイルは50歳で早期退職、セミリタイアしました!その思いを綴ります。

「明日死ぬとしたら」より「3年後死ぬとしたらどう生きるか」を考えたい

 誰もが長生きできる保証は無い、死は「明日」にでもやってくるかもしれないんだ。もしあなたが明日死ぬとしても、そのような雑事で時間を浪費するつもりなのか? 人間、もっとやりたいことをやって生きようよ!

的な話が、リタイア界も含め、なされることがあります。

 言いたいこと、分からなくはないのですが、個人的にひっかかるのは「明日」という部分。「明日」だと唐突すぎるので、できれば数年(例えば3年)スパンで考えたい、と思っています。

目次


 《東京都西多摩郡奥多摩町多摩川)》

明日死ぬ、という仮定は、突飛過ぎる

 先日、次のようなことを書きました。

「生きているうちにこれだけは!」と切迫感を持つこと - 50歳で早期退職し、セミリタイア!

 ちなみに、私の会社の同期は二十数人いましたが既に3人亡くなっています。実に1割強。うち2人は結構最近のことです。事故と病気。あとタレントの上島さん。

 ついこの間まで元気だった人たち(あるいはそのように見えた人たち)です。

 そう考えると、私だって、まだまだ残り時間は何十年もあるように考えていても、実はあと少しなのかもしれない。

  このようにある日突然死んでしまう、ということはあり得ます。ただ、重病とか危険な職業についているなどの事情が無いのに、その「ある日」が、明日とか一週間のスパンでやってくる確率は極めて低い、と思うのです。この同僚だって、それまで10,000日以上も生きていた中での1日なわけですよ。

 だから「明日死んでしまうとしたら」という仮定は突飛過ぎて、個人的には実感が持てないですね。可能性として厳密にゼロではないにしろ、万馬券に当たるくらいの確率の出来事を、真に自分のこととして捉えられる人ってどれくらいいるんだろ?と思ってしまいます。

たった一日では出来ることなどほとんど無い

 まぁ仮に、前項の点をクリアして「明日死ぬとしたら」という仮定を受け入れたとします。でも、たった一日では出来ることなどほとんど無いですよ。

 例えば、私だったら、家族と一緒に食事をして、思い出話をして、遺言状を書いて・・・といった、月並なことになります。

 逆に、仕事人間だったら、むしろ、通常通り出社して、後任に仕事を引き継ぐ、なんて人もいるかもしれない

 家族と過ごすのも、仕事の引継ぎをするのも、確かに大事なことではあります。でも、「明日死ぬとしたら」との折角の仮定も、「人間、もっとやりたいことをやって生きようよ!」の「やりたいこと」を、全然引き出せていない気がするのです。

 結局、一日というスパンが短すぎて出来ることが限られているので、こういう定型的なことに行きつかざるを得ないのです。

数年のスパンで考える

 そこで、「明日死ぬ」ではなく、「数年後に死ぬ」と発想を切り替えます

 これなら、唐突さ・突飛さは大分薄れますし、数年の時間があれば、「家族と一緒に過ごす」「仕事の引継ぎをやる」以外にも、色々とやれることの幅が広がっていきます

 例えば、「数年後」を「3年」に設定したとします。

 私の所属していた会社も含め、多くの会社では、大抵、3年おきに中期計画みたいなのを組まれていますが、それは、何かに取り組む上で、3年というのが一つの目安になる、と考えられているからでしょう。個人においても、この考えを流用します。

 

 スポーツや楽器好きなら、3年トレーニングすれば、それなりのものになります。登山が好きなら、3年あれば大分登れます。源氏物語もコツコツ読んでいけば、完読は充分に可能です。学問的なことも3年あれば、大学卒業レベルのことは身につけられるかもしれません。家族と過ごすのなら、3年あれば、食事だけでなく旅行に何度も行けます。

 もっとも、3年というのはあくまで目安なので、例えば「大学に行きたい」というのであれば4年に設定しても構いません。ただ、6、7年となるとだれてくると思うので、あまり長くし過ぎない方がいいと思います。

 とにかく、「n年後に死ぬ」という仮定を立てた上で、「今後、残りの人生をどのように生きたいか」みたいな発想で行くのが、良いのでは?と思うわけです。

私のnヵ年計画?

 このようなnヵ年計画ですが、私は「数学」がそれにあたるかな。去年くらいからやっているので、もう1年以上になります。最低でも大学卒業レベルまではやりたいのですが、まだ大学1~2年クラスの微積・線型から抜け出せておらず、思ったようには進んでいません。

 

★初めてお越しの方へ。以下にて私のセミリタイアの概要をまとめてあります。
 ⇒50歳でセミリタイア達成!その概要を書きます