何ヶ月か前、NHK『こころの時代』という番組で、外国人のお坊さまが紹介されていました。
「天地いっぱいを生きる」 - こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK
兵庫県北部の山の中にある安泰寺。自給自足の暮らしの中、年間1800時間坐禅を組む。この寺の堂頭を18年務めてきたネルケ無方さん(52)に、お話を伺う。
1968年、ドイツのベルリンで生まれたネルケさん。7歳で母を亡くしたことをきっかけに「自分とは何者か」を考え始め、16歳で禅に出会う。
私と年齢の近いこのお坊さま、なかなか聞かせる話をされる方で、人間の生き方を「トマト、カボチャ、キュウリ」と3つに分類します。そして、多くのリタイア者は必然的にキュウリの生き方になるよなぁ、などと考えたのです。
目次
《埼玉県秩父郡小鹿野町:群馬県境にある志賀坂トンネル付近より》
生き方の3分類
この寺には、日本人だけでなく外国人も修行にやってくるのだそうで、日本人修行僧と外国人修行僧とでは、明らかにモノの考え方や行動パターンが違うそうです。
トマトの生き方
トマトを育てるには、色々と手をかけてやらないといけないそうで、その様子が「あーしなさい、こーしなさい」と、いちいち指示をしないと何をしたら良いのか分からない、多くの日本人修行僧のようである、ということです。
日本人がこの寺にやってくると、ネルケさんは最初に「今後、この寺を背負っていくのは、あなただ」みたいな話をするそうですが、すると、彼らは明らかに不安そうな顔をして「そんなこと言われたって、一体どうすればいいんだ」的な考え方をするそうです。そのあり方がまるでトマトの栽培のようだ、とのこと。
カボチャの生き方
一方で、カボチャは勝手に育つけど、放っておくと、どんどん畑の中を横へ横へと乱雑に広がっていってしまう。その様子は「自分が、自分が」と、あくまで自我を主張する多くの外国人修行僧のようである。
寺でやっている修行に対して「何でそんなことをやるんだ、そんな必要あるのか」みたいに、いちいち突っかかってくるのは、やはり外国人なんだそうで。これはやっぱり「カボチャ」。
ネルケさん曰く、トマトもカボチャも問題がある。キュウリのような生き方が望ましい、ということです。
キュウリの生き方
キュウリというのは、糸を縦に一本、ピンと張ってやると、その糸を伝って自分で育っていく。トマトのように手がかかるわけでもなく、カボチャのように乱雑でも無い。
キュウリを育てるのに必要な一本の糸、これが仏の教えです。
その一本の糸だけを頼りに、あとのことは自分で考え、行動する。それがキュウリなのだそうです。
リタイア者の生き方はキュウリ型
早期リタイアというのは、トマト的な人には絶対向かない。
- 世間で言われることを疑うことなくお金を使っていると、早期リタイアできるだけの資金は準備できない。
⇒【過去の当ブログ参考記事】 今は空前のセミリタイアの好機?でも実行者は少ないね - 職場で「やること」を与えてもらわないと、リタイアした後、自分は何をして過ごしたらよいか分からなくなる。
⇒【過去の当ブログ参考記事】 定年後にやることがない~「やること難民」は日本社会の根深き病?
一方で、ひたすらカボチャ的に、ひたすら自我を主張するのも何か違う気がする。まぁ当ブログでは好き放題書いていますが、普段の生活では人々にいちいち食ってかかっているわけではない。人と接することが減って、自我を主張する必要性が薄れてきたということもありそうです。
結局、リタイア後の生き方はキュウリ型に落ち着く。でもこれは手前味噌で言っているのではなく、消去法なのですね。トマトでもカボチャでもない生き方なので、必然的にそうなってしまう。
とは言っても、私は仏教信者ではなく、仏教については本やテレビで聞きかじるくらいのものですから、「仏の教え」という糸を持っているわけではありません。自分にとっての「一本の糸」は何だろうなぁ。
あまり世間に惑わされず、自分のやりたいことを少しずつやっていく。こういうことだろうか。つまり「自分のやりたいこと」がすなわち「一本の糸」。
逆に言えば、この「一本の糸」が無い人は、リタイアしても色々と問題が出てくるのだと思う。
やはり「人生に意味は無い」
ちなみに、私は少し前に次の記事をアップしました。
【過去の当ブログ参考記事】 人生に意味はあるのか。数学からの?アプローチ
数学の素人は変に数学的であろうとして、約分や割り算に「意味」や「本質」というものを求めがちだが、実は今日の数学では、約分や割り算は、全く機械的な計算ルールとして定義されていて、そこに「意味」を求めることなど、それこそ無意味。
人生も同じで、変に人生の意味を追い求めて苦しくなるより、意味へのコダワリを捨てた方が楽だし、かえって見えてくるものがあるよ・・・・というのが、この記事の要旨。
ネルケさんも、「人生に意味はあるのか?」ということを子供の頃に疑問に思い続けていて、仏門に入ったそうです。
7歳で母を亡くしたことをきっかけに「自分とは何者か」を考え始め、16歳で禅に出会う。
そして、長年、修行を続けてきて感じているのは「人生に意味は無い」ということなのだそう。でもこれは単純なニヒリズム(虚無主義)とは違います。
そこで発見したものは身体。この身体も含めて自分の存在全てが大いなるものに生かされているということだった。
「自分の身体が生きている」という、そのこと自体が大いなる自然の一部であり、その自然に従って生きる。頭でっかちに「人生の意味」など考えてもしょうがない、ということなんでしょう。
私が数学の考え方を人生論に強引に適用した結果と、仏門に入った外国人の考え方が、かなり接近したものである、ということにテレビを見て興味深いものを感じたものです。
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