50歳で早期退職し、セミリタイア!

私セイルは50歳で早期退職、セミリタイアしました!その思いを綴ります。

人生に意味はあるのか。数学からの?アプローチ

 私が大学時代の専門は数学でした。しかも「1足す1はなぜ2になるのか?」といった、非常に根源的な問題を扱う分野でした(数学基礎論といいます)。

 あまりにも難解過ぎて、完全に理解することなく卒業してしまったのですが、ある種の考え方みたいなものは自分の中に残りました。それは人生観にまで影響しているような気がするのです。

 数学というと多くの方は難しく感じると思いますが、その基本的な発想は至ってシンプルなものです。このシンプルな発想を人生にも当てはめれば、もっと楽になれる人は多いのではないか、という提案を述べていきます。

目次

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 《埼玉県児玉郡美里町:JR松久駅(右)のすぐ前に別の建物がある不思議な構造

計算に「意味」を考えてしまう人々

 いきなりですが、最近、次のツイート等が少しだけ話題になっていました。

「数学ゾンビだ…」分数の約分の問題は完璧に解ける息子さん、意味を理解しないまま計算してたことがわかった時の話 - Togetter

息子が、分数の約分を、意味を理解しないまま計算してたことがわかって慌てる。問題は完璧に解けるから発見が遅れた。数学ゾンビだ……


行動だけ見ると人間に見えるけど実は人間じゃない哲学的ゾンビ(正確には行動的ゾンビだが)って概念があって、それの数学版だから数学ゾンビ。問題は解けるけど、意味は理解してないの。

数学的ゾンビは意外と多いのでは

この中に「3を3分の1で割るとなんで9になるのか」という話が出てくる。要は1/3で割ることがなぜ3を掛けることになるのか、という話である。

これに対しては、(略)割り算の本質に迫っていない気がする。

(この間、「割り算の本質」とやらの議論)

いきなり結論だが、私は、これが割り算の本質的な部分だと思う。

 つまり、約分や割り算に「意味」「本質」というものがあって、そういうものを充分に理解させることこそが教育であり、それ無しには、いくら計算が出来ても無意味なのだと、こういう発想です。

計算ルールそれ自体が「本質」。「意味」は二義的なもの。

 これに対して、私の意見は、

  • 約分や割り算は、計算ルールそれ自体が「本質」である
  • 「意味」は、計算ルールに付随した二義的な解釈に過ぎない
  • それぞれの意味・解釈は対等であり、ある解釈が他の解釈と比べ、より本質的・・・なんてことはない

というもの。

 もちろん、約分や割り算が考案された当初は、意味が重要だったのでしょうが、時代が下るごとに抽象化が進んで、意味が削ぎ落された純粋な形に還元されていきました。

 結果、今日の数学では、全く機械的なルールにより定義されていて、それ以上でもそれ以下でも無いのです。

 例えば、私などは、「1/3で割ることと、3を掛けることは同じことである」ことの意味を特段知ろうとすることもなく、そういうものだと受け入れて、大学の数学科まで卒業したのですが、取り立てて不便は感じませんでした。

割り切って先に進むと、広大な風景が見えてくる

 しかし、数学について素人である人ほど、変に数学的であろうとして「意味」を追い求めて袋小路にはまっている人が多い印象です。そこには「意味を理解することこそが算数・数学で最も大切なことだ」みたいなカン違いがあるのだと思います。

 もちろん、「意味を教えてくれないと、どうしても分かった気がしない!」という人には「意味」を教えるしかないのですが、先も述べた通り、それは二義的なもの、「その計算ルールを受け入れてもらうための方便」に過ぎません。

 一方、先の記事の息子さんは、意味にこだわることなく、完璧に計算できているとのこと。それで本人が違和感を感じていないのであれば、方便でしかない「意味」を教え込むより、進んだ勉強をさせる方がずっとよい

 枝葉末節を脇に置いて、計算に習熟できる息子さんは、むしろ数学の才能があるかもしれない、とさえ思います。

 高校では虚数というものが登場して、「二乗してマイナスになる数」を理解するのに苦慮した人は多いでしょうが、こんなものはただの計算ルールだと割り切って先に進むことが出来ると、その後の応用はすこぶる広いもので、その範囲は数学に留まらず、物理や化学、あるいはそれを応用している工学などに及ぶのです。

「意味へのコダワリ」を捨てる。人生においても有効かも。

 つまり、逆説的ですが「意味というものへのコダワリを捨てる」ということは、実は数学の理解においては、とても大切なことなのです。文献を引用しますと・・・・

 パスカルさんに限らず、読者諸氏の数(学)に関する疑問も多くの場合、数(学)に意味を、それもただ一つだけの意味を後生大事にして考えていることが、真の理解を妨げる要因になっていることを指摘しておきたい。

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 読者には意外に思えるかもしればいが、数学に上達する一番の方法は「習うより慣れろ」である。(略)また、あまり意味にこだわりすぎると、幼稚な段階にとどまらざるをえなくなる。(略)

 以上、数学についての話でしたが、「意味へのコダワリを捨てる」という考え方、実は人生においても有効かも?という気がします。

 「人生の意味」を追い求めていって、何か見出すことが出来ればいいんだけど、それが出来なかった場合、ただただ苦しいだけですよね。

 それでも、現役時代においては、「仕事」を「人生の意味」と関連付けるのが手っ取り早いし、巷でもそういう言説が多いので、そうしている人は多そうです。

 でも、退職後、その「人生の意味」を失って呆然とした状態で暮らしたり、何か別の意味を見つけようとして袋小路をウロウロするようでは、本末転倒。

 「人間、意味があることをしなくてはならん」みたいなことを刷り込まれ過ぎて、自縄自縛に陥っている感じ。

 「二義的な解釈」に過ぎない「意味」を「本質」に祭り上げるのをやめたら、もっと楽になれないですかね?

 人生というものは、生理的に生きているという、そのこと自体が本質なのだと。意味なんて考えること自体、それこそ意味なんか無いんだと。そう割り切ってしうことで、かえって広大な風景が見えてくるかもしれませんよ。

 でも、一度ああいった形で思考が固まってしまってからでは難しいでしょうか。

 

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