50歳で早期退職し、セミリタイア!

私セイルは50歳で早期退職、セミリタイアしました!その思いを綴ります。

リタイア後のたまの外食、富裕層っぽくていい感じ

 リタイア前も後も、食事は基本「自炊」で、安く済ませています。安いとは言っても、ネットレシピを参考にすると、結構、おいしく仕上がるので、不満はありません。

 ただ時には、外食にドカンとお金を使うこともあり、リタイアしているという境遇の身との相乗効果により富裕層っぽくていい感じなのです、これが。

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 《埼玉県毛呂山町:大量の旧型ポスト》

外食が「いい感じ」になるパターン

 リタイア後、私が外食するパターンは、以下の3つ。

  1. サイクリングや通院等の外出時、朝食や昼食を外食にする。もちろん一人。
  2. どうしても自炊が面倒なとき、外食する。妻と二人。そんなにお金はかけない。
  3. あらかじめ、予定しておいた外食。妻と二人。結構お金をかける。

 そして「いい感じ」なのは、第三のパターンです。

 先日も、近所のイタリアンに妻と行きました。特に今回は、期間限定の高級ステーキのコースを奮発したので、2人分トータルで1万3000円くらいしました(普段は8000~10000円ぐらいで済ませている)。

 結構いいお値段ですが、イタリアで修行を積んだ人がやっている店だけに、さすがいにいいモノが出てきて満足度が高い。大人数で馬鹿騒ぎするタイプの店ではないから、感染リスクは低いと思う。

 考えてみれば、現役時の飲み会でだって、レンチン料理+ドリンクで一人4500円とかを居酒屋に払うわけだから、それ考えると、2人分トータルで1万3000円かかっても、そこまで高くは感じない。年に数回程度のことなら。

リタイアという境遇との相乗効果

 リタイア前から、お金をかけるタイプの外食に年に何度か行っていたのですが、リタイア後だと、また格別な感じがしますね。

 私のリタイア資金の大半は、これまでの労働賃金を原資としていますが、今は働いていないわけですから、不労所得みたいな感覚でお金を使っています

  • 働いていない悠々自適の状態で、
  • 「不労所得」で、
  • 妻と二人で、ゴージャスな外食をする。

 その最中、ふと思った。

  「これって、まるで富裕層では?」

 もちろん、私は富裕層ではありませんし、本モノの富裕層が全員一律こういう感じでもないでしょう。つまり、単なる私の自己満足なのであります。

 ただ、たとえ自己満足であるにしろ、自分としては、この富裕層っぽい気持ちに浸れるのが非常にいい感じなのですね。

 「あ~、こんな贅沢な時間って無いだろ」

っていくくらい。

 仕事に縛られることの無い自由な毎日というだけでも、かなり贅沢だと思うのですが、それに加え、数ヶ月に一度ペースとはいえ、こんな豪華な食事ができるのだから。

 だから、富裕層といっても、「仕事で大層な金を稼ぐがゆっくり食事をする間も無い人」については、お呼びではありません。

 「優雅さ・贅沢さを兼ね備えた生活をしている人」の方には、何となく憧れがあり、そういう気分を垣間見ることが出来たような気がするのが、何か嬉しい。

 私の偏った「富裕層観」について詳しくは、過去記事をご覧ください。

  【過去の当ブログ参考記事】 資産たった1億円で富裕層扱いとなるのが解せない

リタイア前との違い

 先に述べた通り、リタイア前、現役で仕事しているときも、妻と二人でゴージャスな外食に行ったことは何度もありますが、ここまで、いい感じではなかった。

 先に挙げた条件のうち、次の二つがスポイルするからです。

  • 働いていない悠々自適の状態で、
  • 「不労所得」で、

 フルタイム賃金労働していると、「悠々自適」とは言えないし、店に支払う代金も、毎月の賃金の中からそれに充てているわけで「不労所得」とは思えない。だから「富裕層」感も生じない。

 お金を払えば、ゴージャスな食事は出来るけれども、時間までゴージャスにする効果は限定的というか。単なる庶民の贅沢の域を出ないというか。

 そういえば、以前、次のようなことも書きました。

"在職時の休日"と"日々のリタイア生活"で異なる点

 私の在職時は、前項に述べたように、休日とはいえど完全な休日ではないという感覚が、とにかく嫌でした。

 (略)

仕事とリンクしない時間がいかに心地よいものか。これは在職時の休日には味わうことが出来なかった感覚です。

 これは、休日論ですが、今回の話にも充分通ずる話。

 せせこましい生活の中で、食事だけ豪華にしたところで、明日の仕事のことが頭の片隅にある状態で食べるのでは、そんなの牛丼や立喰そばの延長・・・といったら、言い過ぎという人もいるでしょうが、私個人はそう思ってしまう。

 贅沢な外食は、ある程度生活面・精神面に余裕を持った中で行うのが本当ではないのか?などと、勝手な思いを抱くようになったわけです。

 

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私にとって、リタイアした50歳は第二の成人年齢

 私が長年勤めた会社を辞め、リタイアしたのは50歳。私の時代、成人年齢は20歳でしたから、あれから30年。

 20歳で成人したときは何の感慨もなかったけど、リタイアした50歳については特別な思いがあり、あたかも第二の成人年齢のように感じています。

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 《東京都青梅市:神社脇の神聖な湧き水》

誕生日が嬉しかったリタイア前の数年間

 誕生日になると、子供でも大人でも一つ年をとります。

 子供の頃は、一つ年齢が上がることはおめでたいことであり、人々からも祝ってもらえるので、素直に嬉しかった。

 でも、40代になり、「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」の歌を、身に染みて感ずるようになってからはあまり嬉しくなかったんですよねぇ。

 でも、リタイアを目指し始めてからは、再び誕生日が嬉しくなった

 44~45歳の頃からの話ですので、50歳まであと5年。当初のリタイア計画は、50歳になった月の月末に退職してやるぞ!というものでした(実際に退職したのはその翌月末でしたが・・・去年の今頃はリタイア前のラストスパート【前編】 を参照)

 私の誕生月は12月ですので、退職日へのカウントダウンも、当然、12月を基準にして行っていたのでした。

リタイア決意後,実現までの辛い日々を乗り切る方法

 それはともかく、カウントダウン対象日としては2019年12月x日を設定し、当初は、毎月x日にカウントが1つ減る、という方式をとっていました。すなわち月単位のカウントダウンです。

 しかし、時間が過ぎるのは遅く、1年、いや、1ヶ月でさえも、なかなか過ぎ去ってくれなった。これはなかなか辛い。

 だから、誕生日がきて、リタイアへの節目の日を迎えることに喜びを感じていたわけです。

 特に、毎年12月x日は誕生日ですから、「あとジャスト○年」というタイミングであり、大きな区切りです。例えば、これまで「あと3年○ヶ月」だったのが、翌月から「あと2年○ヶ月」になるのですから、大きな励みになっていました。

 先にも述べた通り、中年過ぎてから誕生日が来て年をとるのは、本来、嫌なもの。でもあのときは、リタイアする楽しみの方が完全に勝っていた

私にとって50歳は「第二の成人年齢」か?

 話は変わりますが、子供というものは、大人になるのを楽しみにしていて「大人になったら、あれもしてやろう、これもしてやろう」みたいに考えているものでしょうか。

 少なくとも私については、そうではありませんでした。大人になるのが嫌とまでは言わないまでも、特に楽しみにしていたわけではありませんでした。だから、20歳になるまであと何年!なんてカウントダウンすることもなく、20歳の誕生日を迎えたときも、特別な感慨などはなく。

 だから、特定の年齢に達するのを楽しみに思ってカウントダウンした、という経験は人生初です。「大人になるのを楽しみにしている子供」ならぬ「リタイア者になるのを楽しみにしている大人」です。

 もう、私にとって50歳という年齢は「第二の成人年齢」と言ってもよいかもしれないのです。

大人になるよりもリタイア後の方が楽しみになる時代

 今の時代、「大人になる」ということが、子供にとってどこまで魅力的なことなんだろう?

 「大人になることの利点」としては、「自分の能力でいっぱい稼ぐことが出来て、自分の好きなものをたくさん買えるようになる」というものがありますが、近年、この利点を享受できない貧乏な大人というのが、クローズアップされてきています。

 この利点を享受することに黄信号が灯されている現代日本において、大人になる意味など見いだせない未成年も多いのではないでしょうか?

 もっとも、昔は昔で、大人には色々大変な面があったと思いますよ。ただ、ネットが無かったから、そういう「大人の実情」に関する情報を子供が知ることは、あまりなかったのではないか、と勝手な推測。

 それはともかく、「大人になる」ということは、実際になってみると、それほど魅力的な出来事でもない、と感じている大人は少なくないはず。

 私もその一人でしたが、「リタイア者になる」ことについては、リタイア前から結構魅力的に映っていて、実際にリタイアしてみると、「ウン、確かに魅力的な生き方だ」と改めて感じているのです。

 子供の頃は時間はありましたが、資金と知恵・スキルがありませんでした。大人時代は、資金と知恵・スキルはあっても、時間がありません。

 でもリタイアした今はそれらは全て揃っており、しかも世の中の進歩により、インターネットを始めとした、様々なツールやソフトが安価で手に入るのです。これらを有効活用して楽しく過ごしています。

 私について言えば、「大人になったとき」よりも「リタイア者になったとき」の方が、ずっと素晴らしい出来事であったと思うのです。

  【過去の当ブログ参考記事】 今は空前のセミリタイアの好機?でも実行者は少ないね

 

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リタイアして家にいると「近所の目」が気になるものなのか?

 リタイアすると、一人でブラブラする時間が増えるので「近所の目が気になる」みたいな記事を少なからず読んだことがあります。

 これって、本人の感じ方や周辺環境にもよる部分が大きく、何か一律に決まった現実があるわけではありませんが、とりあえず、私のケースを書いてみます。

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 《埼玉県日高市:五常の滝》

「"目"を気にすべき近所」が無い

 結論を言ってしまえば、私は「近所の目」など気にしていないわけですが、そもそも近所の人なんて、そこまでよく知らないのです。まぁ、隣に住んでいる人やお向かいの人は、挨拶はします。少し離れたお宅に回覧板を回したりもします。が、せいぜいそれくらい。

 スーパーには、週に何度も通うので、レジ打ちのオバチャンの顔は覚えましたし、向こうも覚えているでしょうが、それ以上のものではありません。平日日中に、そこまで年寄りではない私がスーパーに行くのですから、多少変わっている客と思われているかもしれませんが、そんなこといちいち口にしません。

 つまり、「近所の目」が気になる気にならない以前に、そもそも「"目"を気にすべき近所」というものが存在しないのです。そこまで私のことが気になってしょうがない人なんて、近くには存在しないのですから。

都会/田舎、持ち家/賃貸ではなく、「知り合いの多寡」による

 ちなみに、私が住んでいる場所は、都会・田舎の二分法でいくなら田舎ですし、持ち家に住んでいます。だいたい、田舎の持ち家というのは、人付き合いが面倒とか、近所の過干渉で疲れる、といった悪宣伝をネットでよく見かけます。

 でもこれって本当でしょうか?

 数十人しかいないような閉ざされた限界集落ならいざ知らず、スーパーの経営が成り立つぐらいには開けた地域で、近所からプライベートを詮索されまくるなんて、かなりレアケースなんでないの? 少なくとも「田舎の持ち家」ということは主要なファクターではないと、経験上、思います。

 大きいのは、自分の居住地に、どれだけ知り合いがいるかだと思うのですよね。

 私の場合、今の場所に越してきて僅か数年、子供がいないからPTA絡みの付き合いなども無く、「目を気にしなくてはいけないご近所」なんてものが存在しないのです(実は、もう少し近所で知り合いを増やしてもいいかなと思っているぐらい)。

 でも、近所に知り合いが多い場合、特に、自身が生まれ育った地の場合は、そう簡単に割り切れるものではないでしょうね。

 「○丁目の○○ちゃん、最近、平日昼間によく見かけるけど、一体、何をしているのかしら」などと、同級生のお母さんあたりが余計な心配をしだすと、確かに面倒くさい。

 就職して、田舎から都会の賃貸に移り住んでいる独身の若者が、田舎を批判して「やっぱり田舎は人付き合いが濃厚で面倒臭い。都会は他人に無関心だから楽だ」というようなことを書いているのを見かけます。

 でもそれは、田舎だから都会だから、ということではなく、引っ越し先に知り合いが誰もいないから、自動的に自分を気にかける人がいなくなった、という話であり、それを都会と田舎の違いと錯覚しているのではないか、と思います。

 都会であっても、結婚して住居を定めて、子供が産まれて小学校に通うようになれば、色々と人付き合いが普通に生じてくるものではないでしょうか?

近所を出歩いても、出会う人が少ない。スーパーには非高齢の男性も。

 実は、もう一つ、「近所の目」が気になっていない理由として、近所を出歩いても、それほど人に出会うことが無く、スーパーも混んでいない、ということがあります。そもそも近所の人に出会う頻度が低いから「近所の目」など気にならない、ということです。

 以前、何かの記事で「平日昼間のスーパーは、空気が女性に支配されている」なんてのを読んだことがあります。人口密集地だと、そういうこともあるのでしょうが、今住んでいる場所ぐらいだと、相対的に女性の方が多くとも、絶対数が少ないので、到底、空気を支配するところまではいかない。

 ついでに言えば、高齢には達していないであろう男性も、時折、見かけますね。奥さんと二人で買い物に来ていたりすることも。

 これは、私の住んでいる青梅・奥多摩あたりだと、自営業、フリーランス、工芸家みたいな人の比率が高く、そういう人達が昼間に買い出しに来ているのではないか、と、これは勝手な推測。

おわりに

 「近所の目」というけれど、その「"目"を気にすべき近所」というものが存在しているのか?まずはそこを考えるべきでは?

 私が思うに、「近所に知り合いが多い土地(特に「生まれ育った地域」)」と「限界集落」を避ければ、それ程、恐るるに足らぬ話のような気がするのですが、いかがでしょうか。

 

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GoTo停止。世間では大騒ぎだが、予想通りの展開じゃないのかな?

 先日までGoToやめろの大合唱だったマスコミが、GoToをやめたらやめたで、今度は急に「GoTo停止で悲鳴をあげる観光業の人達」が登場しまくって、GoTo停止の不都合を訴え出しました。

 ことあるごとに世間では大騒ぎしている印象ですが、私に言わせると予想通りの展開なので、そこまで大騒ぎする必要ある?などと、意地悪にも思ってしまうのです。

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 《東京都奥多摩町》

政府の描いていたストーリーは崩れ去った

 直接金をばら撒くよりも、GoToの方が遥かに遥かに経済効果が高い。そのことは非常によく分かります。

 「勝負の3週間」で、感染者数を減少に転じさせ、忘年会・クリスマス・年末・年始のかき入れ時への影響を最小限に抑え、GoToでみんながハッピーになる。これが政府の描いていたストーリーのはずですが、見事に崩れ去りました。

 第2波では、経済への影響を小さく抑えるため、あまり対策らしい対策は行われず、感染予防の呼びかけくらいだったのですが、何と減少に転じた。第3波においても、政府は、この再来を願っていたのかもしれません。

 ただ、第2波のときは、第1波ほど劇的な減少は見られず、ある水準で下げ止まって以降は減らなかった。

 つまり、第2波が収束できていない状態で、各種のGoTo施策や外国人の入国緩和が始まったもんだから、感染者数の増え方は更に劇的となり、冬ということもあって、第2波のような甘いやり方では、減少に転じさせることが難しそうです。

 ただ、感染者数の増加にビビッて、移動を控えようとする傾向が大きくなってきたのも確かで、今のところ指数関数的な増加には至っていません。

 ただ、それでも、1日感染者数が全国で2000~3000、東京で300~600ぐらいの高いレベルをウロウロしています。報道を見る限り、毎日このレベルで感染者数が増えていくことは、医療現場にとっては耐えられないことのようです。

こんなもんかな、とも思う

 前項でまとめた通り、政府のやり方は甘くて、遅くて、ちぐはぐで見るべきところが全くない。それはその通り。

 でも、こんなもんかな、とも思います。

 そう簡単に新型コロナの呪縛から逃れることなんて出来ないんだよ。

 「経済を回したい」という気持ちは分かるけど、先走ってGoToなんてやったところで長続きしないだろう、とは思っていた。だから、予想通りの展開なのです。

 喜び勇んでGoToに申し込んじゃった人、GoToに期待していた観光業の人、本当にそこまでGoToの施策が盤石だと思ってたのだろうか?と不思議に思ってしまうのです。

政府はエビデンスに拘るのをやめろ

 政府がGoToを継続する拠り所としていたのが、「GoToが感染拡大の原因であるエビデンスは無い」というもの。

加藤官房長官、GoTo一斉停止「予防的措置として実施」 - 産経ニュース

「同事業が感染拡大の主要な要因であるとのエビデンス(証拠)は現在のところ存在しないとされており、この認識が変更されたものではない」

 言うまでもないけど、「主要な要因であるとのエビデンスが無い」ということは、「主要な要因ではない」とイコールではありません。GoToとの関連を調査していないから、尾身会長といえどエビデンスを提示しようがないというだけのこと。そういう科学者の良心をいいように再解釈する、個人的にはそのことに一番イライラする。

 大体、疫病対策にエビデンスが出るまで待っていたら、感染対策なんて、いつまで経ってもできないですよ? もういい加減、エビデンスに拘るのはやめて欲しい。

感染防止の主体は、政府でも知事でもなく「個人」

 色々と書いてきましたが、結局行きつくところは、あくまで個人個人の行動なんですよね。政府や知事を批判するのも良いけれど、感染防止の主体は「個人」にあるのだ、ということを、個人個人がもっと認識すべきではないのか。

 「経済を回す」というのを口実にして、リスクの高い行動をしている人が多過ぎるのでは?という気がする。家族にそういう人が一人でもいれば、感染リスクは家族全体に及び、そこからまた別のコミュニティに感染が広がっていく危険性があるわけで。

コロナ第3波をマッタリとやり過ごす

 そこで、私の行動方針としては、とにかく「3密は避ける」。あるいは、「いかにも飛沫の多そうな場所」は避ける。

(略)

 逆に、それらの条件を避けて行動するのなら、比較的低リスクで外出することも出来るんじゃないかな?と考えていて、そういう楽しみは積極的に続けていきたい。

 とにかく、割引につられて高リスクなことをするのではなく、低リスクで楽しめることを積極的に楽しんでは?と思います。

 

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資産たった1億円で富裕層扱いとなるのが解せない

 富裕層は資産1億円以上・・という定義が定着していて、ネット上では「億り人」と称して、尊敬を集めていますが、個人的には、どうにも「小金持ち」ぐらいにしか思えないのです。

 この定義を初めて読んだときには、「えっ、たった1億円で富裕層なの?」というのが正直な感想でした。

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お金持ちは、ある意味、憧れだった

 当ブログは、私の貧乏くさい金銭感覚を皆様に晒しつつ、セミリタイアへの道筋を提案することが、主要テーマの一つになっています。例えば。。。

  【過去の当ブログ参考記事】 

 このような低燃費生活もそれなりに楽しく、惨めとかつまらないとか思ったことは無いのですが、それはそれとして、お金持ち的な生活にも、素直に憧れていました。

 私が思うお金持ちとは、非常に古典的なもので、端的に言ってしまえば、今ある資産だけで、豪邸に住み、死ぬまで豪遊が可能な人達のこと。

 都心部に近く、なおかつ閑静な場所に、広くて豪華な一戸建て、あるいは都心のタワマンの最上階を現金払いで買っても、まだまだ金がしこたま余っているレベル。

 ちょっと趣味が悪いし、「本当のお金持ちは、実は質素な暮らしをしているんだ」という説もありますが、少なくとも資産の量がこのくらいあって、初めてお金持ちと言えるのだ・・・というのが、私個人の感覚です。

富裕層は1億円以上・・・という定義

 前項で述べた金持ち、私の中では、ほぼ富裕層とイコールの言葉。その定義ですが、野村によると1億円以上・・・ということです。

  次の図も有名ですよね。 

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 ただどうにも、私は、このような階層の分け方が妥当と思えず、以前、ケチをつける記事を書いています。

   【過去の当ブログ参考記事】 資産保有額の階層図について新たな提案(アッパーマス層とか準富裕層とか)

 このときは、どちらかといえば、準富裕層以下にスポットを当てて書いていたわけですが、今回は富裕層について書いてます。そして、この富裕層の定義が一億円。

 う~ん、1億円では、都心のタワマンの最上階は無理。70平米くらいの中層階を買ったら、1億円のうちの大半はなくなってしまうから、ローンを組まなくてはならない。

 リタイアしようと思ったら、例の4%ルールでは年間400万円。貧乏リタイアではないけれど、「豪邸に住み、死ぬまで豪遊」は無理せいぜい小金持ちレベルで、ちょっと高い肉を値札見ないで買える、というくらい。

  【過去の当ブログ参考記事】 FIREと4%ルールについてテキトーな雑談

低燃費生活でも、定義上、富裕層になれる

 私自身は、1億円は持っていないとはいえ、リタイア資金としてウン千万円はあるので、1億円が遥か彼方の金額、という気はしない。もう少し出世して、長い期間働いて、投資に精を出していたら、もしかしたら資産1億円に達していたのだろうか、そうしたら自分も富裕層の仲間入りしていたのだろうか。

 逆に言えば、今の自分も、定義上、富裕層からそう遠くない位置にいるわけですが、それにふさわしい生活をしているか、といえば、到底そうではありません

 郊外の格安戸建に住み、電動アシスト自転車で買い物に行き、賞味期限間近の半額シールに飛びつく、といった生活。むしろ、こういう生活だからこそ金が貯まったという側面はあるのでしょうが、貯まったお金は小金なので、絵に描いたような金持ちの生活など不可能。これは、おそらく1億円を超えていたとしても、大きくは変わらない。

 ウン千万や1億持っているというと、投資なり起業なりで金を稼いだ、という華々しい話が多く語られがちです。例えば、次の記事のような。

暇を持て余しているのは誰なのか?暇な富裕層・7つの類型化|梅木 雄平|note

現代では一代で財を成すアッパー層が増えてきている。その属性を詳しくみていこう。

まず、わかりやすく属性の分類から紹介する。

1.昭和型の高齢者資産家(定年退職後60代〜)
2.IPOで株式を売却する経営者(20〜40代)
3.M&Aで株式を売却する経営者(20〜40代)
4.毎年数千万円の現金を稼ぐインフルエンサー(20〜40代)
5.株式や仮想通貨で生計を立てるトレーダー(20〜50代)
6.事業継承系経営者(いわゆる「二代目」経営者。年代問わず)
7.中小企業経営者(年代問わず)

 でもここには、単なる低燃費生活で金を貯めた、という人が登場していません。ウン千万や1億持っているというと、必然的に、特別な才覚を持ち合わせているからだ・・・という思考が先だってしまい、低燃費生活者など、はなから眼中に入らないのでしょう。

 でも実は存在している。月当たりの手取りが平均30万のサラリーマンであっても、10万円しか使わなければ、単純計算で、定年頃まで40年間働けば9600万円、退職金を合わせれば1億超えます。

 そういう人は「富裕層?なにそれおいしいの?」という感覚なのでしょう。

私のように「お金持ち」を捉えるのは多分時代遅れ

 最初の項で、「私が考えるお金持ち像」 を紹介しました。自分で言うのも何ですが、あんな風に捉えるのは多分時代遅れなんだと思います。あるいは「お金持ちというモノに夢を見過ぎ」なのかもしれません。

 実際には、お金持ちといっても、せいぜい保有資産数億円で、それを投資でチョコチョコ増やしたり、激務により高賃金を得て、フローを回転させることで、どうにか、お金持ち的な生活が出来ている、という人が大半なんだろうな。

 任天堂の故・山内社長(通称:組長)みたいに、時雨殿をポケットマネーで建ててしまう人なんて、お金持ち・富裕層と呼ばれる人の中でも別格中の別格なんだな。

 

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リタイア後やりたかった「断捨離」にようやく着手

 リタイア後にやりたかったこととして、第一に挙げられるのは趣味関連のことですが、その他に、自宅や部屋の整理、そして「断捨離」をしようと思っていました。

 しかし、リタイア達成後は、当ブログの立ち上げ・執筆、読書やサイクリングなどで、ついつい後回しになり、最近、ようやく着手。少しずつ作業を進めています。

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 《お見苦しい写真ですが、悪しからず》

私は到底ミニマリストになれない

 本題に入る前に能書から。

 ここ数年、私は、食材などの生活費の他は、「これは本当に自分or我が家にとって必要だ」というモノしか買っていません。もちろん、「本当に必要だ」と判断した場合は、躊躇なく買うわけですが、その頻度はそう高くないので、家のなかのモノは、一定程度以上は増えていきません。

 一方で、モノを減らすという行為もあまりしてきませんでした。まぁ、4LDKの家に2人で住んでいるわけですから、収納が足りずにモノが散乱している、という程ではないのですが、整然と片付いているわけでもありません。

 もう少し捨ててスッキリしたいと、かねがね思ってはいたのですが、モノを買うより捨てるほうがエネルギーいりますから、なかなか進みません。そこで、「リタイア後にやろう」と考えていたのです。

私が断捨離できない理由。勿体ない or 面倒臭い

 私が思うに、人々が断捨離出来ない理由には大きく2つあって、

  1. 勿体ない
  2. 面倒臭い

 そして私の場合、今のところは、2の「面倒臭い」ですね。

 というのも、「勿体なくはないけど、捨てる作業が面倒」というモノが沢山あるからです。

 厳密にいえば、捨てるものの中には、「長年の相棒」として活躍してくれたものもありますので、捨てるのに全く躊躇しない、といったらウソになります。

 ただ、本当に大事なのは、モノそのものではなく思い出です。そこで、「長年の相棒」については、処分する前に写真を撮るようにしています。そうすると、吹っ切れて捨てることができます。

 まぁ、こんな感じで、捨てる前に色々と手続きがあるので、ついつい面倒臭くなるのです。

少しずつ捨てていくことは心がけていきたい

 以前、私は一部のミニマリストを評した記事を書いたことがあります。

コロナに揺れるミニマリスト界

 恐らく、ミニマリスト界には、モノやサービスを「外出し」して、単に自宅内がミニマルなだけ、という方がそれなりにいて、生活自体がミニマル、極端に言えば、方丈記やガンジーのような生活を営んでいる方は、存外に少ないのかもしれません。

 (略)

 確かに、家の中にモノは少ないのかもしれません。でも、その向こうには、大いなる過剰が見え隠れしています。

 つまり、このような人達は、ミニマリストというより、単なる「自宅にモノを置かない主義者」。なんでもかんでも外注・外出しして、その結果、自宅からモノはなくなったけど、生活全体で見たら結構マクシマムだよね、という状態は、私の目指すところではありません。

 なので、「あれも捨てた」「これも捨てた」と、競争するように断捨離情報をアップしている一部の方々には全く賛同できないのですが、家に置いておいてもしょうがないモノは、やはり少しずつ処分してスッキリしたい。

 その際は、

  • サービスの外注・外出しにより、家からモノを追い出す
  • 今より不便になるのを甘受して、家からモノを追い出す

ということは行わない。あくまで、それを捨てたところで生活に全く影響が無いモノだけを処分対象にする、ということです。

最近行った断捨離

自転車・スーツ

 ということで、11月下旬、第一弾として次のモノを処分しました。

  • 使い物にならないボロボロの自転車
  • リタイアしたので、もう二度と着ることは無いであろうスーツ類(カビが生えていた)

 どちらも「長年の相棒」でしたから、もちろん、処分前には写真を撮りましたよ。

小物類、小型家電、CD等

 そして、第二弾がとりあえず完了。

 ここでターゲットにしたのは、小物類と小型家電、いらないCDなど。断捨離物を撮影したのがこちら↓

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 小物類って、一つ一つは場所をとらないけど、まさにチリも積もれば山となるの典型。小物類を入れておくための箱が何個もいるし、そこらに散乱して見苦しいのですよね。

 かなり大ナタを振るって、上の写真のオレンジ色の「燃えないゴミ」の袋が4つ満杯になりました。これで、小物類を入れていた箱もいくつか減らすことが出来ました。

 写真中央~下部には、いらないPCキーボード、小型の音楽プレーヤー、古いデジカメ、ドキュメントスキャナ・・・・様々な小型家電が映っています。まだ使えるものだし、メルカリで売ればいくらかにはなるものもあるだろうけど、そのためには、不要物をしばらく家に留めておかなければならず、断捨離が遠のく。

 私にとっては、小銭を稼ぐことよりも、早く断捨離をすることの方が大事なのです

おわりに

 断捨離はこれで終わりではありません。まだまだ対象となるものはあります。例えば・・・。

  • 小物類の続き(実は、まだ、手をつけていない小物類があります)
  • 冷蔵庫の中

 一方で、断捨離を中止したものもあります。それは、ファミコン、スーファミのカセットです。それどころか、これらのソフトをするために、次のハード(レトロフリーク)を買ってしまったのです!

 このハードは素晴らしい、素晴らし過ぎる。ファミコン、スーファミの他、PCエンジンやメガドラなど、ほとんどのレトロゲームが、この1台で出来るのだ!

 そのため、ここ2週間ほどは、ファミコンやスーファミをやるのに忙しくて、当ブログについては、 ちょっと関心が薄れている、というのが正直なところなのですよね。

 もちろん、ブログを止める予定はありません。レトロフリークについてもレポートしたいし。ただ頻度は落ちるかも。

 

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早期リタイアの原点となった中高生時代のある出来事

 私のリタイア資金計画の最も根幹の部分。それは、安い持ち家に住んで固定費を大幅に削減するということ。実際、リタイア用の家を2000万円(諸費用込み)出して買ったのです。

  【過去の当ブログ参考記事】 リタイア後の住宅を購入した経緯

 2000万は「格安」とまではいかないにせよ、4000万・5000万は当たり前の東京圏にあって、それだけで済ませたわけですから、何千万も浮いたわけです。

 何千万というお金は、リタイア資金・老後資金にあっては、決定的な意味を持つといっても過言ではありません。また、中古を視野に入れれば、もっともっと安い家でお金を浮かせることも可能でしょう。

 思い起こせば、このような発想が浮かんだのは、実はリタイアを決意したタイミングではありません。ずっとずっと昔から潜在的に心の中にあったものでした。

目次

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 《東京都青梅市:あかぼっこ頂上から》

中高生or高校生のときの、ある出来事

 あれは、中学生か高校生の頃だったと思う。埼玉県のトカイナカ地域に泊まったときのこと(具体的な場所や、宿泊の理由は忘れました)。

 宿泊先で、中古不動産のチラシが目にとまりました。多分、新聞の折り込み広告がほったらかしになっていたものだと思いますが、何となくのぞいてみました。一番安かった物件は、今でも忘れもしない、次のようなものでした。

  • 880万円。
  • 駅から徒歩40分くらい(駅名は失念)
  • 築何十年も経過
  • 3DKで全て和室。1階に2部屋、2階に一部屋。

 今だったら、880万円も出す人など誰もいないであろう物件です(逆に言えば、今880万円出せば、もっといい中古住宅が買える)。でも当時の私は「家って、こんなにも安く買えるものなのか」と驚いたのです。

 何と言っても、時はバブル崩壊前。不動産は高額なものというのが常識で、買うためには何千万もの大金が必要になるものだと、世間知らずの私はそのように思っていました。

 だから、不便な立地の小ぶりな中古住宅とはいえ、880万円というのは非常に安く思えたのですね。4000万も5000万も出さなくても買える家があるということ、このとき初めて知ったのです。

これだけの出来事がその後の人生を大きく変えた

 たったこれだけの話なのですが、いまだに記憶に残っているのは、やはり自分にとって大きな発見だったからなのでしょう。

 そしてこの出来事は、その後の私の人生(観)に大きな影響を与えることになります。何たって、自分のなかの不動産価格の基準が880万円に設定されてしまったのですから。

 つまり、「4000~5000万円の家を買おうとする人生」よりも、「880万円を大きく超えない家で済まそうとする人生」を目指すことになった、最初のエピソードなのです。思考回路、行動原理、人生のあり方など、前者と後者で全く異なってくるというのはおわかりですね。

  • 賃貸住まいのとき、投函されるチラシなどで、不動産情報を見ることがあったが、4000万円を下回る物件など皆無だったため、現実感を持つことはなかった。
  • 独身のとき、 ヤフー不動産などで、2LDK・1000万円台のマンションなんかをよく見ていたりしていた。880万円よりは高いけど、そのくらいの価格帯ならどうにかなるし、選択肢が広がって楽しい。
  • 通帳の金額が880万円を超えたとき、「あぁ、あの家だったら買えるくらいにはなったんだなぁ」などと思いにふけった。

 次の過去記事で書いたような発想も、結局はその延長線上にあるものです。

その延長線上に早期リタイア計画あり

 私が最初に早期リタイアを考えたのは37歳ぐらいのとき。

私がリタイアを目指した経緯

当時の通帳によると、37歳の時点で残高は2000万円ほどでした。

 「これを元手に、何とか会社を辞められないか…。」

 しかし、ちょっと考えてみて、それはさすがに無理だと思いました。

 当時は独身で、1Kの賃貸アパートに住んでいましたが(家賃6.4万、うち半額は会社補助)、これをもう少し安い、例えば5万のところに引っ越して、衣・食を5万として、月額10万。

 これ以外に一銭も使わなかったとしても、2000万の元手だと200ヶ月、すなわち17年足らず。50過ぎで資金が尽きる計算です。

 

30代でセミリタイアしていたら?と時折考える

 机上の単純計算のみで、リタイアを諦めていたのです。

 このときは、過去記事にもあるように、単純計算を少しやっただけで、リタイアは諦めた。だから「安い持ち家を買う」なんて発想も浮かびませんでした。恐らく、このときは、そこまで真剣には考えていなかったんだと思います。

 しかし、44歳のとき、現在に繋がる早期リタイアを、本格的に検討開始するにあたって真っ先に考えたのが、一つには「退職金」、一つには「安い持ち家」でした。前者については、例えば、退職金が増えるので50歳で辞めることにした をご覧ください。

 後者については、その濫觴(らんしょう・物事の始まりのこと)を遡れば、やはりあの880万円の家に行き着くんだろうと思うんですよね。

 中高生のときの発見を忘れることなく、「住宅を購入するのだったら、その価格を大きく超えない物件」ということを、何十年もの間、潜在的に意識していた

 でなければ、住宅費は高いものだ、ということが頭から離れることなく、44歳のあの日、「年収100万円の豊かな節約生活術」を立ち読みしたところで、リタイアすることを自分のこととして捉えることが出来なかったはず。

リタイアを思い立ったキッカケ:『年収100万円の豊かな節約生活術』

年収100万円の豊かな節約生活術

年収100万円の豊かな節約生活術

  • 作者:山崎 寿人
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  考えれば、あの時、たまたま書店に立ち寄って、たまたまあの棚を通りがかって、たまたまこの本を手に取ったから、今の私があるのです。

(略)

  色々と計算した結果、一人当たり年間150万円程度(税や年金、健康保険を加味した額)あれば、スーパーの価格チェックをきめ細かく行わなくても暮らしていけそうでした。ただし、ローン無しの持ち家がある、という前提(当時は社宅住まい)。

 言い換えれば、「いざとなったら、880万で住むところは確保できるんだ」という発想こそが、「早期リタイアも可能だよな」という考え方につながっていったということです(もちろん他に税や修繕費はかかりますが)。

 まぁ実際に購入した住宅は2000万になりましたが、それは、それまでの人生経験や資金の蓄積などにより、基準の880万からインフレしたということですね。

 

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老後準備のためだけではない!貯蓄の効用

 今回は次の記事。

現役時代を老後の準備で終わらせてはいけない | マイナビニュース

ある雑誌で、ファイナンシャルプランナーが大卒の新入社員に対し、「給料の一部は老後に備えて貯蓄する習慣をつけなさい」とアドバイスする記事が掲載されていました。 私はこれを読んで、前途洋洋な新入社員に対し、なんとも人生のスケールが小さくなるようなアドバイスに感じました。(略)

それに、貯金に精を出すことは、お金を使わない生活です。そしてそれは、今の自分の生活圏の外側へ踏み出さないということです。(略)だから私は、ガンガンお金を稼ぎ、それを自分や自分の大切な人の成長や進化のために使いたい。 

 この記事を書かれたのは、以前も取り上げた、成功指南ビジネスの方です。

  【過去の当ブログ参考記事】 「成功指南ビジネス」と早期リタイアの関係とは

 

 この手の話は、人々がガンガンにお金を使う価値観を持っていないと説得力を持たせることが出来ないわけですから、しきりにお金を使うことを勧めます。

 数ある価値観のうちの一つとしては十分に認められるものですが、今の世の中の価値観は、遥かに多様化していて、成功・成長一辺倒の古典的な価値観を広めていくのも、そう楽ではないだろうなどと思うのです。

 ところで、この記事の表題・内容を読む限り、人々(特に若者)が貯蓄をする目的・効用は老後準備が大きなウェイトを占めていて、そのために今現在の人生を犠牲にしているのだ、と解釈できます。この記事に限らずよく言われることですが、それって本当でしょうか?

 むしろ、今後の人生をチャレンジングなものにしていくためにも、貯蓄というものは若い頃から、むしろ積極的に捉えていくべき項目ではないかと、もうすぐ50歳を終える私などは思うわけです。

目次

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 《東京都青梅市:奥多摩橋》

チャレンジするにもお金は必要では?

 チャレンジといっても色々とありますが、起業にしろ、投資にしろ、転職にしろ、幾ばくかのお金が必要なのでは?と素朴に思うのです。蓄えがなければ、いざチャンスが巡ってきても、それを生かしきれない。

 例えば、「好きな仕事だけど今よりも給料が低い職場」に転職する場合、蓄えのほとんどを使ってしまうような生活」をしていたら、もうアウトってことになりますよね。起業や投資なら尚更。

 私なぞは、50歳になるまで蓄えてきたお金で早期リタイアに踏み切っています。早期リタイアは、この記事の筆者は否としていますが(「成功指南ビジネス」と早期リタイアの関係とは参照)、大きな人生上の決断を経ているという点では、起業や転職と変わるところはありません。

 そして、十分な蓄えがあるということが、早期リタイアにしろ、起業や転職にしろ、どんなに決断の後押しになってくれるか、知れないのです。

金をかけたものだけが価値ある体験や発想なのか?

それに、貯金に精を出すことは、お金を使わない生活です。そしてそれは、今の自分の生活圏の外側へ踏み出さないということです。(略)しかし、今の自分が見たことのない世界を体験しないとか、今の自分が持っていない発想や価値観に触れないという生活は、自分が進化しないということを意味します。 それは味気ない人生ではないか。

 思うんですけど、金をかけないと体験、発想、価値観を得られないって、貧乏暮らしや貧乏旅行、貧乏メシさえコンテンツとして成立してしまう今の世にあって、それこそ価値観・発想として古いのでは?

 もちろん、世の中には成金向けビジネスもありますし、勉強のために高価なサービスを使ってみるということもあるし、人脈を得るための交際費も必要なのでしょうから、お金を使うことを全面否定するものではありません。

 でも、「今の自分が見たことのない世界を体験」するのに、人にお金を使わせるための「人為的な仕掛け」がふんだんに盛り込まれた高額な商品・サービスを使うことばかりが能だとは思えないんですよね。 

 お金を掛けてはいないけど、無から作り上げた素朴な「自分のやり方」だって、十分、「今の自分が見たことのない世界を体験」できるものではないでしょうか。

 むしろ、企業が仕込む「人為的な仕掛け」のネタが尽きかけている現状では、こちらの方が求められているものかも知れないと思うわけです。でも、「人にお金を使わせるための人為的な仕掛け」を至上としている限り、このような発想や価値観は、かえって生まれにくいわけです。

おわりに

 別に、貯蓄のために爪に火を灯すような生活をしろってことではありません。ただ、「貯蓄」にはもっと積極的な意味があるし、この人のいう、

それよりも、仮に貯金は300万円しかなくても、毎月安定的に20万円が入ってくるとしたらどうでしょうか。今月20万円使っても、来月にはまた20万が振り込まれる。来年もその次の年も、毎月毎月20万円入ってくる……。これなら安心して生活設計ができるのではないでしょうか。

という、自転車操業的な皮算用を現実のものとするのにも、やはり元手はあったほうがいいんでないの?ということ。

 ただ一方で、「新入社員の頃から老後準備を考えるだなんて、寂しい」という筆者の考えも分かるのです。老後不安を煽るだけの記事が増殖していますから。例えば、次の記事など一例。

  貯金2000万円でも老後破綻の危機 ハロワ通い61歳男性の不安

 ただ先にも述べた通り、今後、どういう人生を歩むにしても、蓄えがあると選択肢は広がる蓄えが無いとリスクを取りにくい、ということは確実にあるから、貯蓄体質にはしておいた方がよい。「老後準備」はその分かりやすいキッカケであると捉えておけばいいんじゃないかな。

 ちなみに私も20代の頃は老後資金のことなど考えずに、様々な無駄遣いをしてきました。そして、あの無駄遣いが、巡り巡ってその後の人生の糧になっているかといえば、そうでないものが多数あります。 

 20万円もらって20万円を全額使うことばかりが、自分を進化させることの唯一の手段とは限らない、ということです。

 

 当ブログ過去記事より。

資産保有額の階層図について新たな提案(アッパーマス層とか準富裕層とか)  

私が考えた資産階層
アンダー層

  • 資産保有額100万円未満。
  • 普段から生活が困窮、あるいは普段はどうにか暮らせていても、不景気やコロナなどで失業したら、日をおかずして生活が困窮する。

途上層

  • 資産保有額100万円以上、500万円未満。
  • 500万という数字は、かなりの年収があっても「なかなか貯まらない」タイプの人々が超えることが出来ないと個人的に考えるライン。
  • 職を失ってもただちに困窮することはないが、安心とも言いにくい。
  • 投資や住宅ローンのようなリスクはとりにくく、まずは、貯蓄を積み重ねるべき人々。

 私の個人的な感触によれば、少なくとも500万達成までは貯蓄に励んだ方がよい、ということになります。

 

  【過去の当ブログ参考記事】 「若いうちは金をどんどん使え」はバブルの残滓か?

 

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年賀状 ~ 出世や収入に影響があるから出すべき!だそうです・・・

 そろそろ、年賀状を○日までに投函しろ、とウザイCMが流れてくる季節。

 私は、そんなもん何十年も前から一通も出していませんが、同様の人が多くなってきたのか、年賀葉書の枚数が右肩下がりに減ってきています。

年賀葉書の発行枚数などをさぐる(2020年8月発表版)(不破雷蔵)

  • 2015年 320167
  • 2016年 314208
  • 2017年 297857
  • 2018年 255930
  • 2019年 244090
  • 2020年 194198 

 でも年賀状で食っている人はそれだと困りますから、「人の心が、年の初めに届く国」などの、むずがゆいキャッチコピーをわざわざ考え出すなどして大々的に宣伝し、年賀状を送ってもらおうと必死です。

 そのような年賀状ageな記事の中で、「出世や収入に影響があるから出すべき!」というものを見つけました。ある意味、日本社会の特徴をよく表している記事だと思うので、少し書いてみます。

目次

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 《東京都青梅市:JR青梅線・沢井駅 折返し設備が廃止になって約1年》

年賀状を出し続けてもらうには不安感を煽る

  その記事は、平成29年頃に「おたより本舗」というサイトに投稿されたもの。年賀状をはじめとした挨拶状の印刷などを請け負っているサイトのようです。

出世や収入に影響が!?ネット時代に年賀状がもたらす驚きの効果 – おたより本舗の 教えて!年賀状

【本当に大丈夫?】面倒だからといって年賀状を出さない問題

(略)

 そんな大切な年賀状を、出さなくなってしまったり、メールやSNSで軽く済ませてしまっても大丈夫でしょうか?

 人々の不安に付け込んで受注を増やそうという試み。老後不安に付け込む、(怪しげな)投資記事なんかと同じ手法ですね。年賀状をやめたくてもやめられない人は少なくなさそうですが、こういう不安感が手伝っている部分もあるのでしょう。

年賀状も出さない者は、到底、デキる大人とは言えない

 さて、「年賀状は出世や収入に影響がある」というのは、次の部分。

2014年に、20 代から 50 代までの会社員・男女500人を対象にトレンド総研が行った調査によると、驚くべき事に年賀状を送っている人の方が、送っていない人の平均年収より140万円も多いという結果に。
その中で、年賀状を送っている人の約65%の会社員が、「自分は昇進・昇格のスピードが早い」と感じているのだと答えました。

「ただ年賀状を送るだけで?」という疑問の声が聞こえてきそうですが、この調査データだけを考えれば、年賀状を送る人と送らない人では、明らかに年収・出世に格差が出ていると推測する事が出来ます。

 「年賀状を送ったから出世した」というより、「出世するような人ほど年賀状を送る傾向にある」と解釈する方が近い気がしますが、そのことは置いておくとして、なぜ年賀状を出す出さないが、出世や収入に影響があるのか。

人との繋がりを大切にする”デキる大人”をアピール!

年賀状を毎年マメに送っている人というのは、人とのコミュニケーションを軽視しない人間であると印象付ける事が出来ます。

年賀状を出す事で伝えられるあなたの”社会人スキル”とは?

年賀状を送るという行為の裏側には、あなたの社会人スキルの高さが隠されているのです。たった一枚の年賀状と侮らず、評価と信頼を得るツールとしてぜひとも活用してみて下さい。

 これは上記記事独自の考え方ではなく、日本郵便の公式キャッチコピーでも同様の趣旨のものが採用されていました

「オレ、これからちゃんとする」「年賀状も書くっ!」 澤部さんが波瑠さんに約束

キャッチコピーは「ちゃんと、年賀状。ちゃんと、大人。」

 つまり、年賀状を送るという行為は「デキる大人」「デキる社会人」アピールに有効、裏を返せば、年賀状ごときも送らない人間というのは、到底、「デキる大人」「デキる社会人」とは言えない、ということですね。

  更には、上司への年賀状に「賀正」はNG、という謎マナーまで生み出されているようです。

 「~~すべき」みたいな話は、どんどんインフレしていくというのが日本社会。だから、年賀状の枚数も増えてきたし、謎マナーもどんどん広がっていく。

年賀状をやめたい人が増えるのは当たり前

 このような状況を見るに、一体、何のための年賀状なんだか・・・と思います。

 組織で働いている人が、関係者に対して、まじめに年賀状を送ろうとしたら、その手間暇は相当なものになります。

 まず、誰に出すか?のチョイスが非常に面倒。本当に親しい人にだけ出す!と決めているならともかく、大抵の場合、親しさの度合いが微妙である、多数の人に対して出すべきか出さざるべきか、頭を悩ましているはずです。

 そして、デザイン、印刷、宛名書き。出世を気にするのであれば、当然、気の利いた一言コメントも手書きで添える必要があります

 これらを終えて投函するだけでは終わらない。年明け後も、自分が出していなかった人から来ていないかをチェックして、該当者には、当然、返事を書かなくてはいけない。そのすれ違いもわびしい

 結果、年賀状のために、毎年毎年、多くの人が、相当の労力を使い、神経をすり減らしているのです。

 だから、そういうのが好きな人はともかく、そうでない人は億劫・憂鬱になって「やめたい」と思う人が続出するのは、至極当たり前だと思う。ネットが発達して、やっとそういうことを堂々と言える世の中になった。

私は、大昔にやめてしまった

 でも、年賀状って、相手がいることだから、やめるにしても、なかなか踏ん切りがつかない。

 出すのが慣例化している職場の場合、次のようなことを思われるかもしれない。

職場の後輩から年賀状が来ませんでした。とても気持ちが悪いので、... 

職場の先輩から年賀状が来たら、後輩ならすぐ返事を書くのが普通?礼儀?ですよね?

 先の記事のような「出世に影響がある」「出すのが大人としての礼儀」みたいに言われると、それに抗う(あらがう)ことに躊躇してしまう。

 一方、私は冒頭にも書いたように、何十年も前から一通も出していません。

 年賀状なんて、どれも似たような文面で、読んでいても何が面白いんだかサッパリ分からず、もらっても全く嬉しくない(このように感じている人も実は少なくないのでは?と密かに思っています)。

 もらっても嬉しくないものを、自分から出したいなんて、到底思えるはずもなく

 だから、ある年以降、予告なく、キッパリと年賀状をやめた。

 年賀状が来ても目さえ通さずに処分してたら、いつの間にか、ほとんど誰からも来なくなりました。

 年賀状の無い生活。快適ですよ。

 その後、時代が私に追い付いて、個人情報保護や虚礼廃止などにより、年賀状が出しにくい世の中になり、売上枚数もどんどん減っていったのでした。

「年賀状保存会」を作ればいい

 年賀状は日本の文化だの、もらうと嬉しいだのと、言っている人がいますが、そんなことを言って、同調圧力みたいな形で全員参加させようとするから、ある人達からは年賀状が忌み嫌われる存在になるのです。

 そこで、一つ提案。

 古き良き日本の伝統芸能を残すのに「○○保存会」みたいなのが全国各地にありますが、年賀状についても、「年賀状保存会」なるものを作って、会員相互間でだけやりとりする。それが、一番、幸せになれる人が多いと思います。

 

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定年後にまで「ねばならない」に囚われ過ぎると不幸になる

 今日は次の人生相談を。

【玉置妙憂の心に寄りそう人生相談】子どもは巣立ち仕事も定年…私の生きがいは?(女性自身)

(略)

 私は15年前に離婚してから女手一つで2人の子どもを育ててきました。今ではその子どもたちも成人に。自分の元から巣立っていきました。

 私は若い頃から子どもだけが生きがいで、これといった趣味もなく、親しい友人もいません。今では定年を迎えて仕事もなくなり、一言も言葉を発せずに終わってしまう日もあります。

(略)

 元気な老後を過ごしたいと思うのに、この先の老いていく私に希望が持てません。(女性・61歳・無職)

  私は夫婦二人暮らしですが、あまり人と交わることもなく、この相談者と似たような境遇のため、色々と思うところがあります。

目次

 

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 《埼玉県秩父郡皆野町》

 定年前は、退職後の生活について研修がある

 相談者は、定年や子育てが終わって、燃え尽き症候群みたいになっている状態。こういう状態はよくないもの、何とかしなければならないもの、というのが相談者の頭に植え付けられてしまっているが、いかんともしがたいようです。

 以前の職場で受けた退職後の生活に関する研修では、趣味やボランティア、地域活動、人との会話が重要であることを教えられましたが、その重要性はわかっても、人付き合いが苦手な私には、いまひとつ前に踏み出せません。

 つい読み飛ばしてしまいがちですが、定年が近くなると、「退職後の生活に関する研修」なんてことを、職場がやってくれる、という話は聞いたことがあります。私は、定年前にリタイアしたので未体験ですが、インターネットで検索すると、結構出て来ます。

 以下、その一例。

キャリアデザイン研修 第2の人生に向けて生きがいを考える(1日間):現場で使える研修ならインソース

1.はじめに
【参考】老後生活の満足度について

2.定年がもたらす変化
【ワーク】第2の人生を迎えるにあたり楽しみにしていることと不安に思っていることを共有する

(略)
【参考ワーク】これから起こりうるライフイベントを書き出し、必要なお金を計算する
【参考ワーク】生活費の算出
(略)

3.第2ステージへの礎 ~これまでを振り返る
(1)これまでの職業経験を振り返る
(2)自分の認識を整理する
(3)自分を成長させた出会いについて振り返る
(4)他者の経験を知る
(5)やり残したことを振り返る
【ワーク】本当は興味があった・やりたかったけど、できなかったこと・諦めたことを書き出す

4.第2ステージを充実させる ~生きがいづくり
(1)充実とは何か
【ワーク】充実した人生や生活と聞いて、思い浮かぶキーワードを洗い出す
(2)生きがい探しマップ作成
【ワーク】テキスト記載の作成方法を参考に、生きがい探しマップを作成する
(3)生きがいを矢印から探す ~高く・広く・深く
【ワーク】これからの生きがいになりそうなものを3つあげる

5.「自分人生史」の作成

 お金に関する部分は良いでしょうし、全面的に否定するものではありませんが、個人的にどうもなーと思う部分もあります。

 それは、ワークとして、「本当は興味があった・やりたかったけど、できなかったこと・諦めたこと」「充実した人生や生活と聞いて、思い浮かぶキーワード」などを書き出させ、それらをもとに「生きがい探しマップ」なるものを作成させられる、という部分。

 この方式がいかにも会社員的

 私も現役時代、「我が社の強み」なんかを書き出させられ、キーワードをマップに記して、「わが社の新しい事業戦略」を見つけ出す、なんてことをさせられたのですが、それと全く同じ方式で笑いました。

 もう会社員じゃなくなるんだから、そういう会社員的発想から抜け出した方が幸せになれる人も多いと思うんですが、そもそも、この研修の企画者自身、定年などまだ先の会社員の身分なのですから、会社員的発想しか持てないのも仕方ないか。それに、他社から講師派遣要請が受けるためには、会社員的な研修をしないといけないんだろうし。

 おそらく、冒頭の相談者も、この手の研修を受けさせられて、「趣味やボランティア、地域活動、人との会話が重要である」と吹き込まれ、それが達成できない自分に焦りや絶望を感じているのでしょう。

相談に対する回答

 これに対して、玉置妙憂さんという女性のお坊さんの回答者は、戦闘ゲームのエネルギーチャージを引き合いに出した後、次のようにおっしゃっています。

これまで子育てに仕事に、わき目もふらずエネルギーを注いできたターンが終了して、今はじっとエネルギーをチャージするターンになった。でも、いずれエネルギーがたまれば、また動き出すターンになります。

それまで、気楽にぼーっとしていましょうよ。

(略)

あ、それから。研修でお聞きになった趣味やボランティアや地域活動。ちっとも重要じゃないです。一歩踏み出す必要なんて、さらさらありません。ひとの退職後の生活にまで口を出すなって、言ってやりましょう。あなたの「これから」ですから。(略)

 これはなかなか見事な回答です。

 定年アドバイザーみないな人だと、自分自身が「退職後の成功者」であることも手伝ってか、

「やはり、『趣味やボランティアや地域活動』のようなことは、定年後の生きがいのためには大切ですからね~。一歩踏み出すためには、こうしてみたらいかがでしょう。」

みたいなアドバイスに走りがちなところ、

   「ちっとも重要じゃない」

と、誤解を恐れず、喝破しているところが実に気持ちいい。「生きがい探しマップ」を作成させている、定年などまだ先の研修講師などには思いも浮かばない話でしょう。

 もちろん、趣味やボランティアや地域活動を全否定しているんじゃないんだと思います。

 その手の「有意義な活動をしなければならない」という意識に縛られて不幸になるようでは本末転倒なので、それに囚われることはないよ、ということを強調しているのでしょう。

リタイア後にまで「ねばならない」に囚われてしまう理由

 現役時の仕事においては、「こうであらねばならない」ということが本当に沢山あった。例えば・・・

  • 出勤には遅れてはならない。
  • コミュニケーション能力を磨かなくてはならない
  • 常に報連相を意識しなければならない
  • 常にユーザー・お客様の立場に立って考えなくてはならない
  • 人のために役立っていなくてはならない
  • 仕事を通じて、自身を成長させなくてはならない

など。

 こういうのは、本来、仕事を進めていく手段だったはずが、いつの間にか「そういうことをしていないと、人間として堕落していくものだ」みたいに変換されていった。

 現役時はそれでよくとも、退職後は上記のような「ねばならない」はなくなってしまうので、新たな「ねばならない」を作ろうという話になります。

 もともと「仕事を進めていく上での手段」に始まった話が、何故か、仕事を辞めて以降にも通用する、人生の善し悪しを決定づける普遍的な要素として扱われているわけです。

 それが、先の相談の「趣味やボランティアや地域活動」。あるいは、以前、当ブログで書いた次のようなこと。

完全リタイアは「ひきこもり」か?

 日本社会は、「社会とつながる」とか「コミュニケーション能力」をやたらと賛美する風潮がありますが、このような社会の風潮が、かえって問題を作り出している側面もあるんじゃないですかね。


退職後にまで「社会と繋がって」ないと不安な社会

「働く」とか「社会と繋がる」なんてのは手段に過ぎないという考え方もあるから、そこに至高の価値を置いて、自分がその域に達していないと悩む必要なんてないよ

 こういうのって、結局、現役時代のあり方を至善のものとして、退職後もそのあり方を延長するという発想なんです。

 それでうまくいく人はいいのですが、全員がそうではなく、退職後は現役時代とは別の発想に切り替える、という考え方に従った方が幸せになれる人も少なくないんだろうと思います。

 仕事を辞めた今は、別に、人の役になど立たなくてもいいし、生きがいなんて齷齪(あくせく)探し回るものでもない。非生産的なことが許されるのが退職者の特権なのだから。

 先の相談の回答は、

エネルギーがたまれば、あなたの中のなにかがきっと動きはじめます。

と結んでいますが、何かやりたくなったら、その時やればよいのです。行き当たりばったりも退職者の特権です。

 

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人生に意味はあるのか。数学からの?アプローチ

 私が大学時代の専門は数学でした。しかも「1足す1はなぜ2になるのか?」といった、非常に根源的な問題を扱う分野でした(数学基礎論といいます)。

 あまりにも難解過ぎて、完全に理解することなく卒業してしまったのですが、ある種の考え方みたいなものは自分の中に残りました。それは人生観にまで影響しているような気がするのです。

 数学というと多くの方は難しく感じると思いますが、その基本的な発想は至ってシンプルなものです。このシンプルな発想を人生にも当てはめれば、もっと楽になれる人は多いのではないか、という提案を述べていきます。

目次

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 《埼玉県児玉郡美里町:JR松久駅(右)のすぐ前に別の建物がある不思議な構造

計算に「意味」を考えてしまう人々

 いきなりですが、最近、次のツイート等が少しだけ話題になっていました。

「数学ゾンビだ…」分数の約分の問題は完璧に解ける息子さん、意味を理解しないまま計算してたことがわかった時の話 - Togetter

息子が、分数の約分を、意味を理解しないまま計算してたことがわかって慌てる。問題は完璧に解けるから発見が遅れた。数学ゾンビだ……


行動だけ見ると人間に見えるけど実は人間じゃない哲学的ゾンビ(正確には行動的ゾンビだが)って概念があって、それの数学版だから数学ゾンビ。問題は解けるけど、意味は理解してないの。

数学的ゾンビは意外と多いのでは

この中に「3を3分の1で割るとなんで9になるのか」という話が出てくる。要は1/3で割ることがなぜ3を掛けることになるのか、という話である。

これに対しては、(略)割り算の本質に迫っていない気がする。

(この間、「割り算の本質」とやらの議論)

いきなり結論だが、私は、これが割り算の本質的な部分だと思う。

 つまり、約分や割り算に「意味」「本質」というものがあって、そういうものを充分に理解させることこそが教育であり、それ無しには、いくら計算が出来ても無意味なのだと、こういう発想です。

計算ルールそれ自体が「本質」。「意味」は二義的なもの。

 これに対して、私の意見は、

  • 約分や割り算は、計算ルールそれ自体が「本質」である
  • 「意味」は、計算ルールに付随した二義的な解釈に過ぎない
  • それぞれの意味・解釈は対等であり、ある解釈が他の解釈と比べ、より本質的・・・なんてことはない

というもの。

 もちろん、約分や割り算が考案された当初は、意味が重要だったのでしょうが、時代が下るごとに抽象化が進んで、意味が削ぎ落された純粋な形に還元されていきました。

 結果、今日の数学では、全く機械的なルールにより定義されていて、それ以上でもそれ以下でも無いのです。

 例えば、私などは、「1/3で割ることと、3を掛けることは同じことである」ことの意味を特段知ろうとすることもなく、そういうものだと受け入れて、大学の数学科まで卒業したのですが、取り立てて不便は感じませんでした。

割り切って先に進むと、広大な風景が見えてくる

 しかし、数学について素人である人ほど、変に数学的であろうとして「意味」を追い求めて袋小路にはまっている人が多い印象です。そこには「意味を理解することこそが算数・数学で最も大切なことだ」みたいなカン違いがあるのだと思います。

 もちろん、「意味を教えてくれないと、どうしても分かった気がしない!」という人には「意味」を教えるしかないのですが、先も述べた通り、それは二義的なもの、「その計算ルールを受け入れてもらうための方便」に過ぎません。

 一方、先の記事の息子さんは、意味にこだわることなく、完璧に計算できているとのこと。それで本人が違和感を感じていないのであれば、方便でしかない「意味」を教え込むより、進んだ勉強をさせる方がずっとよい

 枝葉末節を脇に置いて、計算に習熟できる息子さんは、むしろ数学の才能があるかもしれない、とさえ思います。

 高校では虚数というものが登場して、「二乗してマイナスになる数」を理解するのに苦慮した人は多いでしょうが、こんなものはただの計算ルールだと割り切って先に進むことが出来ると、その後の応用はすこぶる広いもので、その範囲は数学に留まらず、物理や化学、あるいはそれを応用している工学などに及ぶのです。

「意味へのコダワリ」を捨てる。人生においても有効かも。

 つまり、逆説的ですが「意味というものへのコダワリを捨てる」ということは、実は数学の理解においては、とても大切なことなのです。文献を引用しますと・・・・

 パスカルさんに限らず、読者諸氏の数(学)に関する疑問も多くの場合、数(学)に意味を、それもただ一つだけの意味を後生大事にして考えていることが、真の理解を妨げる要因になっていることを指摘しておきたい。

〓2(るーと2)の不思議 (ちくま学芸文庫)

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  • 作者:足立 恒雄
  • 発売日: 2007/02/01
  • メディア: 文庫
 

 読者には意外に思えるかもしればいが、数学に上達する一番の方法は「習うより慣れろ」である。(略)また、あまり意味にこだわりすぎると、幼稚な段階にとどまらざるをえなくなる。(略)

 以上、数学についての話でしたが、「意味へのコダワリを捨てる」という考え方、実は人生においても有効かも?という気がします。

 「人生の意味」を追い求めていって、何か見出すことが出来ればいいんだけど、それが出来なかった場合、ただただ苦しいだけですよね。

 それでも、現役時代においては、「仕事」を「人生の意味」と関連付けるのが手っ取り早いし、巷でもそういう言説が多いので、そうしている人は多そうです。

 でも、退職後、その「人生の意味」を失って呆然とした状態で暮らしたり、何か別の意味を見つけようとして袋小路をウロウロするようでは、本末転倒。

 「人間、意味があることをしなくてはならん」みたいなことを刷り込まれ過ぎて、自縄自縛に陥っている感じ。

 「二義的な解釈」に過ぎない「意味」を「本質」に祭り上げるのをやめたら、もっと楽になれないですかね?

 人生というものは、生理的に生きているという、そのこと自体が本質なのだと。意味なんて考えること自体、それこそ意味なんか無いんだと。そう割り切ってしうことで、かえって広大な風景が見えてくるかもしれませんよ。

 でも、一度ああいった形で思考が固まってしまってからでは難しいでしょうか。

 

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リタイア資金の計算は「逆算の発想」も利用する

 老後資金orアーリー・リタイアするのにはいくら必要?みたいなネット記事は腐るほどありますが、これは人によって異なるので、ネットの煽り記事よりも、まずは自分で計算みることが大切。

  【過去の当ブログ参考記事】 リタイア資金は自分で計算するのが大事

 そして、細かな部分はともかく、概算くらいなら、中学数学の一次関数・一次方程式が理解できていれば、誰でも可能なはずなので、本来はFPに依頼するまでも無い話です。

 当ブログ過去記事より。

「貯蓄取崩し型セミリタイア」の資金計算・超概要

 例えば、年金支給開始時を初期状態として、次の式がプラスになればよいのです。

   資産初期値-(生活費-年金額)×年数

 インフレとか、天災とか、年金額が思うようにもらえないとか、思ったより長生きしてしまうかもとか、心配のネタはいくらでも挙げることはできます。

 でもまずは、楽観的予測でもよいから、上記の式をプラスにすることが第一歩。楽観的予測をプラスにすることさえ出来ていないのに、悲観的な条件ばかりをいくらあげつらったって、詮無きことです。

 これは、

  「毎年の生活費」を既定値として与えておいて、最終的にいくらの資金があればよいか

という考え方。

 でも逆に、

  「最終の資金額」を既定値として与えておいて、その場合、毎年の生活費はいくら使えるのか

という考え方もアリあのかな、と思います。

 つまり、「逆算の発想」です。

目次

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 《山梨県小菅村:多摩川支流小菅川にかかる「雄滝」》

老後破産しないためには○○万円貯めておくべき?

  「早期リタイアに〇千万円必要」「老後破産しないためには△千万円貯めておくべし」みたいな感じで不安を煽る記事が多いですよね。

  まぁ、この手の記事を参考にするのも悪くはないでしょう。

 でも私はこう思います。 老後に○○万円必要って、実際に準備できそうもない金額を言われたところで、どうしようもないじゃないか、と。

 「ゆとりある生活」あるいは「安全サイド」で水増しした数字を、毎月の生活費として単純に積み上げていくと、結構とんでもない金額となります。

 このような額を根拠に、ひたすら長く働くことを勧めたり、バラ色の投資を勧める類は、不安を煽るのには長けていても、FPとしてみた場合どうなのかな、と思います。

 「準備可能な額」から逆算する

 とはいえ、何らかの既定値を設定しないと、資金計画を立てようがありません。

 そこで、生活費を既定値にするのではなく、「準備可能な資金額」を既定値にしたらどうでしょうか

 つまり、「現実的に準備できる資金額」を決め打ちで設定してしまい、その場合、毎年生活費としていくらまで使えるのかを「逆算」で求める、という発想です。

 例えば、50歳でのリタイアを検討していて、「その頃には、退職金を含め、3000万くらいなら準備できそうだ」としたら、まずは3000万円を既定値として設定し、この額を一生持たせるために、どう貯金を取り崩したらよいか、そのペースを逆算してみるのです。

 更に、年間支出をX万円として、90歳まで生きると仮定。年金は65歳から年間130万を受け取るとすると(年金額はねんきんネットで調べる)、この間の収入・支出は、

  • 既定の資金額 3000
  • 年金収入 130×(90-65)=3250
  • 支出 X×(90-50)=40X

 90歳での死亡時に年金と全財産を使い切るとすると、40X=3250+3000、これを解いてX=156.25となります。

 すると、支出を年間150万に抑えておけば、90歳まで生きても金が尽きることはない、ということが分かるわけです(改めて計算すると、90歳時点で250万円残ることが分かります)。

 このように概算してみると、「〇千万円必要!」という話からは見えてこなかった、リタイア資金のリアルが見えてきます。

逆算した結果から再検討

 前項のような試算だけでは終わりません。むしろ、話はここから。前項で求めた値が厳しい、ということであれば、何か↓対策をとることになります。例えば次のような。

年間150万で生活できるよう支出を見直す(前項の具体例の場合)

 前項の例では、年間150万まで使えると計算されましたが、60歳までは国民年金の支払いがあります。他にも健康保険などがあるので、それらを加味すると、可処分なのは年間120万(月額10万円)くらい。

 実は、我が家の出費も、夫婦二人で年間(120万+α)程度なので、+αの部分をどうにかすれば、年間120万円で暮らしていくことは可能なんですよね。

  【過去の当ブログ参考記事】 我が家の家計とリタイア資産状況について、もう少し詳しく書いてみる

 120万というのは、かなり少ない額のように思えますが、それでもどうにかなっているのは、何と言っても住宅費が安いからです。とにかく、安く住める住宅を手に入れておくことです。実家に戻るか、格安の賃貸か、築年数のいった郊外戸建なら、相当に費用を抑えることが出来ます。

  【過去の当ブログ参考記事】 貧乏リタイアにはトカイナカが手っ取り早い?

副収入を得る

 投資かバイト。私の得意分野ではないので、別ブログを見て頂く方がよいと思いますが、有効な方法だと思います。

 年間60万(月5万ペース)程度のバイトを10年続ける程度でも、資金繰りは大分楽になります。

リタイア年齢を1年延長する

 リタイア資金不足を補うには、何だかんだいっても、リタイア年齢を延長するのが一番手っ取り早いのではないか、と思います。

 前項の具体例において、条件を次のように変更してみます。

  • リタイア年齢を50歳から51歳に延期
  • 50~51歳の間の、手取り給与から支出額を差し引いた額を250万とする
  • 年金の受給額が年間130万から132万に増加したとする

 このときの年間生活費をY万円とすると

  • 既定の資金額 3000+250=3250
  • 年金収入 132×(90-65)=3300
  • 支出 Y×(90-51)=39Y

 39Y=3250+3300、これを解いてY≒168

 前項の条件では、X=156.25でしたから、年間に使える額を一気に10万円以上増やすことが出来るわけです。

年金の繰下げ受給

 長生きを想定するなら、年金の繰下げ受給も有効。例えば、1年繰下げて66歳受給開始とすると、年金は8.4%増えます。

 年金受給1年繰下げと、前項の51歳リタイア延長と合わせて行うと、詳しい計算は省略しますが、年間に使える額は170万を超えてきます。

おわりに

 これまで述べてきたのは概算レベルですが、このような地味な計算を積み重ねていくことで、非現実的な数字に絶望したり踊らされたりすることは避けられるのではないでしょうか。堅実かつ冷静な人であれば、早めにリタイアできる可能性はそれなりにあると思っています。

 ・・・と、ここまで書いたら、次の記事を見つけてしまいました。

老後資金は「いくら必要か」ではない!? | TRILL【トリル】

ですから私は、「いくら貯めるべきか」と考えるより、「リタイアまでにいくら貯められそうか」という視点で「MY老後資金」を計算し、そこから老後の暮らしを描いたほうがよいと考えています。

(略)

 それよりも「自分の老後資金」を知り、そこから暮らしをイメージするほうが現実的だし前向きです。

  発想としては当ブログと同じなので、併せて読まれるとよいかもしれません。

 

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都心が頂点の『東京ヒエラルキー』は都心在勤者だけでやってることでは?

 東京都民の間では、住んでいる場所によってヒエラルキーがあるそうです。

「都民を名乗れるのは23区だけ...?地方から来て体感した『東京ヒエラルキー』の実態」

「東京都民の中にも細かくヒエラルキーがあり、まず23区以外は『都下』と呼ばれ、都民によってはそれを(半分冗談だとは思いますが)東京都とは認めていないことを知りました」

「東京でできた友人によれば、23区内の中でも外縁の区は田舎(!)扱いで、更には環七より外はダメとか、山手線内でなければ都会とは言えないなど細かな区分があり、東京のピラミッドの奥深さを知りました」

 そういうこと、やたらと気にする人がいるのは分かるけど、そのほとんどは「都心在勤者」だけでやっていることではないか、それ以外の人は、ただそれに付き合ってあげているだけでは?という話を書いていきます。

目次

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 《東京都奥多摩町》

都心在勤者と東京ヒエラルキー

 東京ヒエラルキーの要素として、いくつか挙げることができるでしょうが、その主要なものとして、「都心部への交通利便性」というのがあるでしょう。

 以前、私は次の投稿をしました。

  【過去の当ブログ参考記事】 都心に住むより郊外で家賃浮かせる方がよくない?

 この記事内容に関わらず、月に10万以上の家賃を上乗せしてでも、都心近くに住もうとするのは、やはり遠距離通勤の過酷さが大きいのだと思います。

 住居費を多く払えば払うほど、より都心近くに住居を構えることができ、遠距離通勤から解放されて羨望の的となる

 すなわち、都心在勤者については、「都心部への交通利便性」が、その人の財力や遠距離通勤からの解放度合を表す指標になるわけですから、ヒエラルキーの主要な要素として成立するわけです。

郊外に職場があると、都心の住居はそれほど有難くもない

 しかし、それは都心在勤者に限った話。職場が郊外にある場合、話が違ってきます。

 例えば、私の現役時代の職場は、東京都の23区にある中央線快速の某駅が最寄でした。だから「都心部への交通利便性」にあまり有難味は無く、住処は中央線・青梅線に構えていました。生活に不便は無い一方、家賃が安く済ませられるのはありがたいことでした。

 これは早期リタイアを目指してスモール生活していた私だけのことか、といえば、さにあらず。

 職場で「○○さんが家を買った」みたいな話が会話に出てきたとき、その場所は、ほとんど全てが郊外でした。中央線を中心に、青梅線・京王線・西武線、あるいは埼玉県方面などです。一方、都心部に家を買った人の話は聞きませんでした。

 しかも、私よりも出世して給料を沢山もらっていそうな人達も例外ではありません。彼らだったら、東京ヒエラルキーの高位にあるタワマンだって買えるだろうに、買わない。郊外の土地が安そうな場所に買っている。

 それは何故か?

 住居が郊外であっても、そこまで通勤は大変じゃないし、生活に不便は無いし、何より、莫大な住居費を払わなくて済むからででしょう。

 言い換えれば、職場が都心にあるのでなければ、ヒエラルキー高位の住居なんて、高額の住居費に見合う程には有難く感じられないわけです。

 これは、貧乏人はもちろん、それなりの給料をもらっている人も、そう変わらないのだと思います。

 当たり前なことを書いているようですが、本当に都心部がスバラシイ場所なのであれば、郊外在勤者もこぞって都心近くに住居を持ちたくなるはずなのに、必ずしもそうはなっていない、ということを言っているのですから、決して当たり前ではありません。

『東京ヒエラルキー』には温度差がある

 だから、『東京ヒエラルキー』といっても、都民一人一人によって結構温度差がある気がします。

 都心在勤者は、毎日のように都心の職場と行き来する生活を送っていますから、ヒエラルキーの高低と生活内容が密接に関連している。だから、ヒエラルキーの高低は結構切実なのではないか。

 一方、郊外在勤者にはそれ程の切実さはない。

 まぁ、ヒエラルキーというものがあることは知っていて、自分の住居が低ヒエラルキーなのも自覚していますから、「ここは田舎だ」などと卑下したりします。でも、ヒエラルキー高位の場所に引っ越したい、なんて内心全然思っていない

 本気で高ヒエラルキーを崇め奉り、それを目指している人々、それを達成して鼻高々の人々、達成できないで悔しい思いをしている人々から離れた場所で、生暖かく見守っているという以上のものではない。彼らに付き合ってあげているという感覚なのだと思います。

 

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「若いうちは金をどんどん使え」はバブルの残滓か?

 先日、中島らも氏の著書を引用し、江戸時代の「宵越しの金は持たねぇ」というのは、「経営者が一旦渡した金を再び吸い上げて、労働者を毎日働かせるシステム」であった、ということを述べました。

「宵越の銭は持たねぇ」とは金を吸い上げて毎日働かせるシステム 

ビジネス・ナンセンス事典 (集英社文庫)

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  • 作者:中島らも
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刹那主義

 当時は雇用者側の親方や口入れ屋などが、自ら胴元となって賭場をひらくケースが多かった。一度人に与えたお金をバクチでもう一度吸い上げるわけで、社会全体が一種の「タコ部屋構造」になっていたのである。

 これはそういう欲得のこともあるのだが、ひとつには当時の職人の気質の問題もある。何日分か食べていける金が手元にあると、もう次の日からは働こうとしないのだ。(略)

 当の本人はそれでいいのだろうが、それでは雇う側が困る。(略)このタコ部屋システムを維持するために「宵越しの銭を持たない」のがダンディという気風を広めたのである。(略)

 

 実は、この章には続きがありまして、そのことを今回は書いていきます。

 

目次

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 《埼玉県日高市》

貯蓄の概念が浸透してきた明治から昭和 

  江戸時代は前述の通り「「宵越しの銭を持たねぇ」のがダンディだったわけですが、明治以降は貯蓄重視の世の中に変わってきたと、らも氏は指摘します。

 それが明治から現在にかけて徐々に変わってきた。何度かの取りつけ騒ぎを経て、銀行というものが絶対につぶれないシステムになっていくとともに、通帳を眺めてニタニタ笑うのが趣味だという人の数も増えていった。

 ニタニタしてたかどうかは別にして、私が子供の頃は「しっかり貯金をしておくべき」というのが常識だったような気がします。

  • 月給制が普及し、計画的に金を使うことが必要になった
  • 定期預金に預けておけば、お金が勝手に増えた(インフレもあったのですが)
  • 当時は高額だった家電(三種の神器や3C)を手に入れるには、貯蓄しないと買えなかった。

などの背景があるでしょう。

 アリとキリギリスの話では、一方的にキリギリスが愚か者扱いされていましたし。

バブルにより、貯蓄観念が江戸時代に回帰

  しかし、らも氏は、続けて次のように書いています。

 ところが、ここ十年くらいでそうした貯蓄観念にまた変化が起きているような気がする。

 僕の友人に、一部上場の超一流企業に勤めている男がいるが、彼はほとんど貯金というものをしていない。毎年何度かは海外へ遊びに行って、ウィンドサーフィンやスキーにうつつをぬかしている。せっかくいい給料をもらっているのに、どうしてなんだ、とたずねると彼はこう答えた。

 「それはたしかに給料はいいよ。しかしそこから仮に月十万円貯めたとしろよ。一年で百二十万円、十年で千二百万だ。いま千二百万で何ができると思う?」

 そう言われてみればたしかにそうだ。千二百万では家は買えない。それなら借家住まいで遊んだほうが身のためなのかもしれない。宵越しの銭があまり役に立たない時代なんだろうか。 

 今では信じられないくらいに刹那的な考え方です。

 本当に、このような刹那主義に回帰したのであれば、それはバブルの影響をおいて他に考えられません。

 バブル期は1986年12月~1991年2月だそうで、一方、この本の初版は「1993年6月10日」。恐らくこの会話はバブル時代、あるいはその残り香のある時期になされたものでしょう。

 オイルショックから立ち直り、バブルにより経済が急拡大した時代、フリーアルバイター(フリーター)なるものが、「何者にもしばられない新しい生き方」として、持てはやされてた記憶が私にもあります。以下、当ブログ過去記事からの引用。

フリーターとセミリタイアの違いとは?

 フリーアルバイター、今でいうフリーターが持ち上げられていたのは、私が就職するかしないかの頃ですから、(コメントにあった)氷河期世代ではなく、バブル世代です。

 今、フリーターというと、「正規ではどこも雇ってくれないので、やむを得ず非正規雇用で食いつないでいる人」というニュアンスですが、当時は違いました。「敢えて非正規を選び、自分のやりたいことをやる人」のことでした。

 「バイトで金が貯まったら定期的に海外旅行で豪遊する人」、「自分の夢の実現に向け活動する傍ら、バイトで生活費を稼ぐ人」などが、多数登場していました。当時は空前の人手不足でバイトでも充分稼げたので、そのようなことが可能でした。

 これも、相当な刹那主義です。

 当時のフリーアルバイターにせよ、らも氏の友人の「一部上場の超一流企業会社員」にせよ、形態こそ違え、刹那主義という点では選ぶところがありません。

 もちろん、人によって様々であったのですが、このような刹那主義がバブル期の一つの側面であったというのは間違い無いでしょう。

 もっとも、それも故無きことではありません。

 確かに当時の不動産価格は高く、しかもどんどん値上がりしていました。1200万円、いや、その倍の2400万があっても、全くお話にならないということが、少なくともイメージとしてはありました(今でもある?それは失礼)。

 また、今と違って、100円ショップもユニクロもネットも普及しておらず、商品は割高で買えるものが限定されていた。お金の使い出が悪かったのです。

  【過去の当ブログ参考記事】 今は空前のセミリタイアの好機?でも実行者は少ないね

 こんな状態で日常生活でチマチマ節約するよりは、遊びにパーッと使ってしまって、また稼げばいい、というのも、確かに一つのあり方ではあったのです。

再び、刹那主義が後退

 しかし、バブルがはじけて後は、刹那主義で生きることが難しくなって今に至っています。

 マスコミで「その日暮らし」の人が取り上げられても、多くの場合、前項のような享楽家ではなく、非正規で金が無いから仕方なく、というパターンです。

 老後破産がセンセーショナルに取り上げられ、若いうちからの老後資金準備が大事なのだ、という論調も盛んで、まさに「宵越しの銭は持たねぇ」の対極です。

「老後資金」 若い世代ほど計画的に準備している? 

いずれにしても「これだけ準備すれば安心」という基準はありませんが、準備をしているかどうかで、老後の生活に大きく影響してきます。とくに若い世代の人は、年金に期待できないからこそ、それに代わる備えが必要になります。

 以上をまとめると、次のようになりますが、まるでシーソーのようですね。

  • 江戸時代(職人層)
    刹那主義(宵越しの金は持たない極端な形も)
  • 明治~昭和バブル前
    貯蓄重視
  • バブル期
    刹那主義
  • バブル以降~現在
    貯蓄重視(若年から老後に備える極端な形も)

今も残る刹那主義の残滓

 ただ、バブル期以降は貯蓄重視に振れてきたとはいえ、「若いうちは、金をどんどん使え」みたいな話は、今でも結構盛んに語られています。例えば・・・、

 私の推測なのですが、これらはかつての刹那主義、特にバブル期の刹那主義の残滓なんだと思います。

 上の記事を書かれた方が、バブル時代に既に社会人であったとは限りません。しかし、バブル期の頃から言われていた話が、バブル崩壊とともにきれいさっぱり無くなってしまうわけではなく、このような考え方も、現在まで脈々と受け継がれてきているのだと思います。

 「刹那主義とは違う!自己投資だ!」と怒られてしまうかも知れませんが。

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「宵越の銭は持たねぇ」とは金を吸い上げて毎日働かせるシステム

 「宵越しの銭は持たねえ」なる言葉が江戸っ子のダンディズムとして知られていますが、実はこれ、支配者側に随分と都合の良い集金システム、かつ、人々を働かせるシステムであり、現代日本社会に通ずるところがあります。

 今回は、故・中島らも氏のビジネス・ナンセンス事典の「刹那主義」という項を引用しつつ、書いていきましょう。 

ビジネス・ナンセンス事典 (集英社文庫)

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目次

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 《東京都奥多摩町》

金を吸い上げて毎日働かせるシステム

 これから述べることは、数ある説の一つ、ということは初めにお断りしておきます。

 さて、「宵越しの銭は持たねえ」というのは、単なるビンボーで金が無いというのではなく、金離れがよい者ほど粋なのだ、という労働者側の美学です。

 しかし、らも氏が紹介している説によると、この美学、むしろ雇用する側が意図的に作りだした風潮なのだそうです。

 当時は雇用者側の親方や口入れ屋などが、自ら胴元となって賭場をひらくケースが多かった。一度人に与えたお金をバクチでもう一度吸い上げるわけで、社会全体が一種の「タコ部屋構造」になっていたのである。

 これはそういう欲得のこともあるのだが、ひとつには当時の職人の気質の問題もある。何日分か食べていける金が手元にあると、もう次の日からは働こうとしないのだ。ごろごろ遊び暮らして、金がなくなったらまた働きに出てくる。毎日働いて、金を貯めようという気などは毛頭ない。(略)

 当の本人はそれでいいのだろうが、それでは雇う側が困る。家一軒建てるにしても、大工さんが出てくるのか出てこないのかわからないのでは落成のメドが立たないのである。金がなければ確実に次の日も出てくるわけだから、飲む打つ買うで余分な金をきれいに吐き出させるしか手がない。自ら賭場をひらくのもそのためで、このタコ部屋システムを維持するために「宵越しの銭を持たない」のがダンディという気風を広めたのである。(略)

 この風潮が意図的に作りあげられたものかはともかくとして、少なくとも結果的には、「一旦渡した金を再び吸い上げて、労働者を毎日働かせるシステム」が成立していたということなのでしょう。

 もちろん、他の説もあります。江戸では火事が多くて「お金をとっておいても、どうせ燃えてしまうから」というのも、その一つ。

 でもそれだったら、この風潮が労働者側だけでなく、雇用者側にも適用されなくてはいけないはずですが、そんなことにはなっていない。経営者は、商売をつぶしてはならじと、計画的な資産管理をしていたはずなのです。

タコ部屋はもっとひどい

 まぁ、江戸時代の話は、雇用者も労働者も持ちつ持たれつ、という感じで平和ですが、先の引用に出てくるタコ部屋はちょっとシャレになりませんね。

タコ部屋労働 - Wikipedia

 タコ部屋労働とは、主に戦前の北海道で、労働者をかなりの期間身体的に拘束して行われた非人間的環境下における過酷な肉体労働である。

 (略)

 北海道内から集められた労働者の労働条件は比較的良好であったらしいが、本州から送り込まれる労働者は、斡旋業者に騙され半ば人身売買のように売られて低賃金により酷使された。高額の飲食代を徴収することで、その低賃金すら残らなかったという。外出が禁止されていたので、身の回りの物もすべてタコ部屋で調達せざるを得ず、これも収奪の手法になっていた。

 「一旦渡した金を再び吸い上げて、労働者を毎日働かせるシステム」という点では、らも氏が言うように、この「タコ部屋構造」が江戸時代の社会構造に通ずるものがあるわけです。

そして現代日本・・・

 江戸時代、明治~戦前ときて、現代です。

 当ブログの読者であれば、私が何を言いたいのかお分かりでしょう。

 そう、「一旦渡した金を再び吸い上げて、労働者を毎日働かせるシステム」という「タコ部屋構造」は、現代でも通用しているよね、ということ。

 実は、その気になれば、現代日本では安く生活できるということは、次の過去記事に書きました。

今は空前のセミリタイアの好機?でも実行者は少ないね

 私の子供の頃に比べれば、世の中は進歩しており、当時は高給取りでなければ出来なかった生活が、現在はかなりの低所得層でも可能になっているということです。

(略)

 若い方は貧乏くさい話のように捉えるでしょうが、私に言わせれば「なんてすごい世の中になったんだ」。世に出ている安価なサービスや商品を適宜組み合わせるだけで、当時の金持ちに近い暮らしができてしまうんです。それで金が余るなら、+αで自分独自の趣味に使ったり、貯金や投資に振り向けてやればよい。

 だから、本当なら、現代日本では、働いたり働かなかったり、ということを、個人がかなり柔軟に決めることが出来るはずなのですが、それが一般化してしまうと経済が回らない。

  そのため、江戸時代のように「一晩で使い尽くせ!」とまではいかないにしても、金を使え~、消費しろ~、そして働いて稼げ~、という圧力により、人々に金を使わせるわけです。特にえげつないのが、都心部の住宅ローンor家賃でしょうか。

 【過去の当ブログ参考記事】

 そういえば、以前、次の記事をアップしました。

世帯年収1000万円でも不満な人々が集う掲示板

390. 匿名 2020/05/26(火) 19:02:24 [通報]

>>266

だからさ、額面で1000万稼いでいても手取りにすると700万くらいなのよ。住宅ローン支払ったり、車のローン支払ったり、車庫がない都心部の家なら車庫代が月4.5万くらい別に掛かるんだよ?
住宅ローン15万
車のローン 3万
車庫代 4.5万
食費 8万
光熱費 2万
通信費 1.5万
雑費 3万
小遣い夫婦で 5万
これだけで月に42万吹っ飛ぶよね。そこに保育園7万としたら50万近く飛んでく。

  都内だと年収1000万あっても足りな~い、とか言っている方々は、結局、社会の「タコ部屋構造」に完璧に嵌ってしまっているのです。たとえ1000万を稼いでも、稼いだ分の大半を吸い取られる構造の中に身を置いているわけですから。

 でもこのような方々は、色々とボヤキながらも、タコ部屋のタコであることを、むしろ誇りに思っていらっしゃるように見えるのは、私だけでしょうか。もしかしたら、ご本人は「タコ部屋の経営者側」にいるおつもりなのかも知れないですが。

タコ部屋構造から抜け出してセミリタイア

 当ブログの主題は「セミリタイア」ですから、その観点からすると、自分がタコ部屋構造の中に身を置いていることに早く気付いて、そこから抜け出す努力をするのが肝要、ということになります。

 そのためには、宵越しの金は多く持っておくべきでしょう。幸い、本当のタコ部屋のように、粗末な食事を買ったらもう金が残らない、なんて世の中ではないから、やり方はあるはず。

 「宵越しの銭は持たねえ」というのが支配者側に都合の良い風潮、という点にヒントがあるような気がします。支配者というと、ついつい日本政府のことを思い浮かべてしまいますが、ここではむしろ「経済的に支配している人々」 といった方が当たっています。

 そのような人々が提唱する、仕事をしっかりして、お金を使って楽しんで、自分を成長させて・・・・という話は、支配者側の都合が多分に含まれているはずで、この話に乗っかるというのは、つまりは支配者側が経営する賭場に乗り込んでいくようなもの

 そのことを全面的に否定するのではないものの、ここで有り金をほとんどスッてしまうようでは、70歳になってもタコ部屋構造から抜け出すことは出来ませんよ、ということです。

 これ、簡単なようですが、「支配者側の誘導には乗らないぞ!」といった、ある種の反骨心が必要になりますし、そもそも「本当はタコなのに経営者側にいると勘違いしている」ということもありそうですから、誰にでも出来ることではないんだろう、と思います。

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